るか知れないが、それは、事情やむを得ないことでもあるし、彼が死んでからのことだから、怨《うら》みとして記憶されるはずはない」
「でも、仏頂寺は、何かあなたの知らないことで、あなたを恨んでいるかも知れないわ」
「いいや、わしには今いう通り彼を恨もうとも、彼に恨まれる筋は微塵もないのだが、君の方には大いに恨まれる筋があるかも知れない」
「あら、しどいわ、仏頂寺なんかに恨まれる筋はなくってよ」
「そりゃ、自分はないと思っても、先方にあるかも知れない」
「あら、しっぺ返しをおっしゃるわ、仏頂寺なんかに恨まれる筋は、わたし毛頭ないわ、仏頂寺を恨む筋はあるか知れないが……誰かの口真似《くちまね》よ、お気の毒さま」
「ふふん、そうは言わせない、第一、この間の小鳥峠にしてからが、わしは一通り介抱してみて、差当りの手数で、できるだけ親切に葬ってやろうとしたのを、人が来るとあぶないからと言って、強いてそれをわしにさせなかったのは誰だ。だから、あの時の怨念《おんねん》が残るとすれば、拙者につかないで、君の上に取りつくのが当然だ」
「あら怖い――あんなことで、仏頂寺の怨念に取りつかれちゃあ、全くやりきれませんねえ、あれは、あの場合、そんな人情ずくにからまれていてはおたがい様があぶないから、やむを得ないわ。わたしが仏頂寺を憎いと思うのは、それより以前のことなのよ」
「それより以前に、君は何か仏頂寺に憎まれるようなことをしたのか、また仏頂寺を憎むような罪を作ったのか」
「知らないわ――そんなこと、あなたがいちばんよく知っておいでのくせに」
「はて、君という女が、仏頂寺に憎まれるようなことをした、仏頂寺を憎むようなことをしたということを、どうして拙者が知っている?」
「まだあんなしら[#「しら」に傍点]を切っていらっしゃる、それは、あなたのほかには誰も御存じないことなのよ」
「はて、拙者はいっこう心当りがないがな。いったい仏頂寺は、君という女をそれほど憎んでいたのか」
「お気の毒さま、憎しみは愛の変形なりって、唐人町の儒者が申しました」
「ナニ、憎しみは愛の変形?」
「はい、愛のないところに憎しみはない、憎しみのあるのは愛のある証拠でありますとさ」
「むずかしいことを言い出したね、してみると、君を憎んでいた仏頂寺は、君を愛していたという理窟になり、仏頂寺を憎み返す君はまた、仏頂寺を……」
「そん
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