せてやった衣類を、意地のようにふんばいで、二目とは見られない。
 苦りきった兵馬は、立ってまた衣類をかぶせてやっていると、どこかの空で、なるほど鶏が鳴き出している。

         四十六

 それからまた、旅にかかって、女をいたわりいたわり行くと、まもなく一つの山路に出ました。四五町の登り、大した崖というではなかったが、山路の上に立って見ると、昨夜の夢を思い起さざるを得ない。
 仏頂寺と丸山から指された、峠の谷を思い起さないわけにはゆかない。なにもこの峠が、夢に見た峠と寸分違わないというような、神仙譚《しんせんたん》にありそうな光景を想像するのではない。昨晩の夢とはだいぶ趣きが違っていて、周囲はむろん山また山だが、別に加賀の白山らしいものが雪をいただいた頂を高く抜いているのではない。峠の下の行手は谷になって、部落の屋根が三々五々に見おろせることだけは、夢と符牒《ふちょう》を合わせているようなものだが、それとても、今日までの旅行にありきたりの光景であって、山と谷との間を旅をする者は、どこへ行っても、誰人も経験する道程に過ぎない。それでも兵馬は思い合わされて、異様な感じに襲われながら、女の足をいたわって、そこで暫しの休息をやりますと、
「ねえ宇津木さん、わたし、また怖《こわ》い夢を見ちゃいましたよ、仏頂寺の夢を」
「うむ、仏頂寺の夢をか」
「どうしてまた、毎晩、仏頂寺の夢ばかり見るんでしょうね」
「お前もか」
「では、宇津木さん、あなたも毎晩、仏頂寺の夢をごらんになるのですか」
「そうだよ、実はあれから、毎晩のように仏頂寺に関する夢ばかり見せられてるんだが、愚にもつかないから黙っていたよ」
「そうでしたか、わたしも、あれから、しょっちゅう仏頂寺の夢ばっかり、やっぱり恨まれているんだわね」
「うむ」
「恨まれているのよ。あんなしつっこい人に恨まれちゃ、やりきれないわよ」
「だが、仏頂寺が、そう我々を恨まなけりゃならん筋はない――また、仏頂寺としても、みだりに執念を残すような往生ぎわの悪い男でもないはずだ」
「だって、人間の心持というものはわからないわ」
「こっちこそ、仏頂寺に多大の迷惑を蒙《こうむ》らせられてこそおれ、あれに逆恨《さかうら》みをされる覚えはないのだが、強《し》いて言えばあの小鳥峠の時、ろくろく葬いもしてやらないで、見捨てて来たのが不人情と言えば言われ
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