います、その千五百畝を日本式の坪数に引直してみますると四万五千坪でございます、これに前の桑田四百坪を加えますと、四万五千四百坪になる勘定でございます、その四万五千四百坪を、今度は日本の反歩に逆算してみますると、一反歩を三百坪と致しまして、三千坪の一町歩、三万坪の十町歩、あとの一万五千坪を反歩に引直しますると三五の十五で五町歩、そう致しますると四万五千坪は即ち十五町歩、それに四百坪を加えますると十六町三畝十歩の土地を諸葛孔明様は持っておいでになりました。十六町歩と申しますると、日本の国ではまず中農以上の大地主の部類に属する地面持でございますが、かりにこれを一反歩五俵二石取りと致しますと、一町歩の二十石、十町歩の二百石、五町歩の百石でございますから、三百石取りの資産なのでございます。三百石取りと申しますと、日本の侍の中通りの身上に過ぎないのでございます。二千年近くの昔とは申せ、四百余州の支那の国を三分した天下の宰相が、三百石取りの知行《ちぎょう》で甘んずることを心得ておられたということによって、いかに諸葛孔明が清廉潔白のお方であったかということがよくわかるのでございます。それで御自分だけではない、一家一門を、不足を言わせないようにしつけて置かれたのですから、いざ[#「いざ」に傍点]となれば、自分も宰相の位をやめて、鍬《くわ》を取ってお百姓になれるだけの腕をお持ちになり、それからまた御子息たちをも地主様としてでなく、ほんとうに自ら働くお百姓として立って行かれるように、教育を為《な》されてお置きになったものに相違ございません。仮りにまた、只今かぞえてみました孔明様の御知行を、支那面積に見積りまして、三倍、四倍と評価を致してみましたところで、千石前後でありまして、日本で申しますと、中藩の家老どころに過ぎないのでございます。諸葛孔明は支那三千年、第一等の宰相と称せられておりますが、お百姓としてもまた立派な一人前のお百姓でありました。その力でございます。でございますから、まだ出廬《しゅつろ》をなさらない時分の毎日の生活と申しますのは、晴れた日には自分から陽当りのいい前畑に出て躬耕《きゅうこう》を致し、雨の日には自分の好むところの古今東西の書物を取ってごらんになる、それだけの境涯で楽しみが余りあって、それ以上には全く求むるの心がございませんでした。求めなくともよろしいのです、それ以
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