上求める必要もございません、求むればかえって煩《わずら》いを惹《ひ》くということを、明白に御自覚でございました。王者の身を屈して、その人の草廬を三たびたずねられても、出づることを欲しなかったのは、大臣大将の身になるよりも、この五段百姓の方がどのくらい御当人に好ましい境遇であることを、つくづく自ら味わっておりましたのです。お百姓という仕事は、全く天の時と、地の恵みだけで生きられる仕事なのでございます。乱世ともなれば、この世界はまだ広いのでございますから、未開墾の地も到るところにございましょう、兵馬の到らない、戦塵の飛ばない、平和な地に根を卸《おろ》して、そこに耕して生きて行く分には、何人の権力もこれに及ぶことはございますまい、諸葛孔明は農業を楽しむことを知る人でございました。斯様《かよう》に申しますると、人はみな諸葛孔明ではない、しかもこれを楽しみ得られる人ばかりではない、とおっしゃるかもしれませんが、この農を楽しむ心は、移して以ていかなる人の境涯にも置けないことはござりませぬ。私のような、人にも神にも見放されました不具の身は格別と致しまして、およそ五体が満足でありさえ致せば、いかなる人も農を楽しんで楽しめないはずはないのでございます。他の楽しみは、おのおのその天分気分にもよりましょうけれど、農ばかりは、誰もこれを働き、誰もこれを楽しんで、そうして、自他共に、他に迷惑をかけることの微塵もない職業なのでございます。農業の苦痛を説くのも、時によっては当然の応病与薬でございますが、諸葛孔明の心を以て、農を楽しむことを万人に教えて悪いということはございますまい……と私は考えますのでございます」
「うーん」
さすがの不破の関守氏と青嵐居士が、ここに至って全く唸《うな》ってしまいました。やっとわずかに一声うなるだけの閑隙《すきま》を与えられました。
四十三
言わせて置けば、まあ、どのくらい喋《しゃべ》るのか、太公望から始まって、諸葛孔明が出て来たかと思うと、支那と日本の段歩の換算まではじめられてしまった。あまりのことに、口を挿もうにもさしはさむ隙間が与えられない。唖然《あぜん》として、空しくこのおしゃべり坊主の面《かお》をながめているばかりでしたが、ここに至ってようやく、「うーん」と一つ唸るだけの隙を与えられました。しかし、ほんの一つ息つぎに唸る隙を与え
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