ではないということの根本の事実と、実際とを教えて上げなければなりますまい。末世に於きましては、事実上、正当の地位がみな置き換えられてしまっているのでございます。それは最初のうちに、国を治める人が方便のためにしたことが、後日はその方便が方便の仮借《かしゃく》から離れて、そのことそのものに、われとつけてしまった箔《はく》のために、われと迷うているのでございます。たとえばこの世の位階勲等の如きは、最初は、帝王の宏大なる政治心から、人間待遇の道として開かれたものでございまして、人が偉いから、おのずからそのかがやきが発せられたものなんでございまして、後代に到りますと、人間がつまらないのに、箔だけがかがやくものでございますから、知恵の浅い多数の者が、その中身を見ないで、箔だけを拝むようになりました。位階勲等ばかりではございません、人間の原始の生活には、富というものはございませんでした、また、正当な生活をやっておりさえ致しますと、富というものの蓄積も、使用も、さのみ効用がないものなのでございます。然《しか》るに末世になりまして、人間がおのおの生活のために戦うようになりますと、富の蓄積が即ち生命の蓄積と同じような貴重なものになりまして、同時に人間そのものの生命を尊重するよりは、生命のために蓄積した富そのものを拝むように間違って参りました。富があれば、安楽にして一生が暮せる、富がなければ、一生を牛馬の如く苦労して暮らさなければならぬ、一歩あやまてば餓えて死ななければならぬ、その恐怖のために万人がおののいて、みすみす罪におちておりますが、私から言わせますと、このくらい違った迷信はないものと存じまする。他人の膏血《こうけつ》による富を積んで、己《おの》れが安楽に暮さんとする、その安楽が、世の人の考える如く安楽なものでございましょうか、汗を流して終日働く人たちのみが、世の人の考えるほど不幸なものであり、労苦なものでございましょうか。この観念を、今の人は、よく見直すことに出直さなければならないのではないですか。位階勲等の高きもの、身分格式の卑しいもの、働かないものが幸福で働くものが不仕合せ、ただ単にそれだけで或いは誇り、或いは憂えるということがあんまり浅はかに過ぎます。本当の幸福は、世のいわゆる、見て以て高しとするところになく、見て以て低しとするところに存在するのではございますまいか。且つま
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