ん。
もし、この二人は多少なりとも予備知識があって、ここに存在する小物体が、怖るべき感覚の所有者であり、また更に怖るべき饒舌家《じょうぜつか》であることを知ったならば、二人とも、かくまで羽目を外《はず》して時事を痛論するようなことはなかったでしょう。もしありとしても、必ずや、この小存在物をあらかじめ眼中に置いて、談論の一節一節の終りと始めとには、「わたしたちはこう思うが、弁信さんはどう思います」と一口ぐらいは挨拶があり、会釈《えしゃく》があって然るべきはずだったでしょう。それをそうしなかったことを悔ゆるまでもなく、二人はただ驚きの上に、呆《あき》れて、
「弁信さん、何が悲しいのだ」
とダメを押したに過ぎません。
「何が悲しいとおっしゃいましても、人間が人間同士、理解し合えぬほど悲しいことはございません」
「エ、エ、何ですって」
と二人は、また驚異と疑惑とを以て、弁信法師の面を見直しました。
「人間が人間を理解し合えぬほど、悲しいことはございません、人間が人間同士、理解し合えなければこそ、人間の団体が、おのおのその団体を理解することができないのでございます、さむらいがお百姓を理解することができないのが悲しいです、お百姓がさむらいを理解することのできないのも悲しいです、士農は工商を理解することができず、工商は士農を理解することができないといたしましたならば、四海のうち、四民の間、どこに共存共栄の地がございましょう……」
さてこそ、怖るべき饒舌が、これから始まるらしい。
四十一
一息にこれだけのことを言い切られて、さしも二人の浪人が、
「うーん」
と唸《うな》りました。しかし、実はまだ唸るのには早かったのです。この辺で唸り出してしまった日には、この小坊主の底の知れないお喋《しゃべ》りの腹蔵のやっと戸口のところへ来て、眼を廻してしまったようなものなのです。前に言う通り、皆目《かいもく》、お喋り坊主のお喋りぶりのいかに怖るべきかということに予備知識を持たなかった二人としては、まずこの辺で驚いてしまうのも無理のないものがあります。一方、弁信法師に於ては、ここでようやく持病の堰《せき》を切って、弁論の滝を放流しはじめました――
「たとえばです、あなた方は、農が苦しいという立場だけは、充分御理解になっていらっしゃるようですが、農が正しいということ、農が楽
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