がって、三百年の泰平が出来上りましたには相違ないが、さて、その後は武力の必要がなくなったのです。およそこの世に必要なきに存在する人間はみな遊民です、非常時に当っては最も有用なりしさむらい[#「さむらい」に傍点]が、常時に於ては無用の遊民と化してしまった徳川家八万騎をはじめ、三百諸侯がおのおの莫大な遊民を抱え込んでしまった、而《しか》して、その食糧並びに遊民の遊蕩費というものを、いずれに向って求めましょう、百姓――農民より搾《しぼ》るほかに出所はないではないですか」
「全くその通り、我々も昨日までは、その遊民の端くれの地位を汚していて、農民の血汗に寄食していたものです。戦国の時代を程遠からず、武士の威力と恩恵がまだ存していた時代は格別、こうして永く泰平が続く間に、平和に働いていた農民が、我々こそは何故にかくまで働きつつ、こうまで搾られなければならないか――そこに疑問を持ち、憤慨を持ち、反抗を持ち来《きた》るのもまた歴史の一過程でしょう」
「近代に於て、百姓一揆《ひゃくしょういっき》というものが澎湃《ほうはい》たる一大勢力となり、牧民者がほとんど手のつけようがなく、しかも表面は相当の刑罰を以て臨むにかかわらず、事実は、いつも一歩一歩と一揆側の勝利の結果となって行く、それもあながち筋道がないとは言えないです」
「しかし――当世のことはさむらい[#「さむらい」に傍点]と百姓、つまり兵農の分離ということのほかに癌《がん》はないかというと、事は左様に単純なものではないのですな。兵と農とのほかに、つまりさむらい[#「さむらい」に傍点]と百姓とのほかに、別に一つの大きな勢力が現われました、その現われた大きな勢力が、兵をも食い、農をも食い、みるみるうちに食い肥って、あらゆるものを食い尽して、舌なめずりをしようとする悪魔の出現を見ないわけにはいかないでしょう。その大きな新勢力というのは、すなわち町人です。百姓がさむらい[#「さむらい」に傍点]に対して頭を上げて来たというよりは、いずれは百姓も、さむらい[#「さむらい」に傍点]も、やがてこの町人という新たな化け物のために食われてしまうような時代が到来するのではないか――拙者は以前から、多少それを懸念していたが、この江州に来ていよいよ確実にその将来の懼《おそ》るべき黒影を見て取ることができました。いかがです、この町人というものの今日の時代に
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