かったりしてやった後は、また郷に帰って百姓をする――といったのがあの時代の武家の制度でした」
「その通り――それが、現在のようにかっきり[#「かっきり」に傍点]と、武士と百姓がわかれてしまったのは、大なる不祥といえば、大なる不祥でした」
「そもそも今日のように、さむらい[#「さむらい」に傍点]と百姓とが、かっきりとわかれてしまったのは荻生徂徠《おぎゅうそらい》の説によると、北条時頼の時代からだそうです」
「北条時頼から始まったと、そう明確に線を引いてしまうわけにもいくまいが、いずれは鎌倉の中期頃、天下に漸く事が多くなって、屯田《とんでん》の農民ばかりではやりきれない、どうしても常備兵というものの必要に迫られて来た時から始まったのでしょう。かくて、世が乱れるにつれて兵の需要が増し、同時にこれを司《つかさど》るものの威力が増大して来ました。兵が勇敢となり、威力が加わって来てみると、悍然《かんぜん》として身命を賭《と》して外敵に当るものの風采が、颯爽《さっそう》として、勇ましく見える、土にかじりついて耕作をする人間の姿が、いたましくも、みすぼらしくも見え出してくる、そこで武士は選ばれたる優越階級となり、農民は落伍せる下積階級のように見え出してきて、やがて最も鮮かに兵農が分離してしまいました」
「兵は農より出でて農を軽んじ、農は兵を出だして兵を恨むの事態が醸《かも》し出されたのは、不幸です」
「御尤《ごもっと》もです、古《いにし》えは兵が農を守りました、今は兵がことごとくさむらい[#「さむらい」に傍点]という遊民になりました。この遊民を威張らせ、養って行くために、農が十重二十重《とえはたえ》の負担をしなければならない、さむらい[#「さむらい」に傍点]という遊民を食わせて、これに傲慢と驕奢《きょうしゃ》を提供する役廻りが、農民の上に負わされて来たという次第です」

         三十九

「まずそうです、例を徳川氏にとってみましょう、徳川家がいわゆる旗本八万騎を養成した当時には、養成すべき理由がありました、そのいわゆる八万騎によって海内《かいだい》を平定して、三百年来の泰平を開いたのです」
「左様――それは認めなければならない、同時に、徳川家に対してのみ承認すべきではない、三百諸侯が、大小となく、皆それぞれ相当の士を養って、おのおのの領土を安泰にし、そのまま徳川家にぶらさ
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