「ちと頼みたいことがありましてね、夜分突然にあがりましたよ」
 思いがけない人が、突然にやって来て、先方から頼みたいことがある、頼みたいことがあると言って繰返す――頼みたいことではない、頼まれたいことはむしろこちらにあるのです、と弁信に言わせない先に、その人は、
「三人連れでやって来ました」
「お三人でおいでになりましたか」
「ええ、三人でやって来ました、まあごめんなさいよ、いいですか、みんなこの中へ呼び入れますよ」
「どうぞ」
「どうも、不意に押しかけて相済みません……」
 つづいて、外に待っていたらしい一人の簑笠が、決して広くもあらぬこの庵の中へと、乱入ではない、侵入でもない、極めて静かに、全く世を忍ぶ者ででもあるように、簑笠のままで入ってきまして、土間に突立ちました。提灯は一つ、最初の簑の間に隠されているだけですから、後ろを照らすことは少なく、前を照らすことのみに向いているが、本来は弁信法師のいるところに限っては、夜昼ともに光というものが用を為《な》さない。だが、この場面の全体をただ一本の蝋燭《ろうそく》に任せては、照明の任が重過ぎる。その時、ようやく弁信法師が、最初当然こちらから為すべき質問を、不意の来客に向って切り出しました、
「あなた方は、わたくしが掲げました合図の旗をごらんになって、それによって、おいで下すったのではございませんか」
 これは当然の質問です。当然の質問というよりも、先方から、のっけに切り出さねばならぬところの挨拶であるべきであったのです。つまり、「弁信さん、遅くなって済みません、つい、あなたの合図の旗を認めるのが遅かったものですから――いや、認めるには認めましたけれども、これこれしかじかの事情にさまたげられて後《おく》れました、ずいぶん心配したでしょう、もう安心なさいよ」とでも言ってくれるのが本筋であるべきのに、そのことは言わずして、いちずに自分の方の勝手でやって来たようなことを言うものですから、弁信から逆にダメを押されたのです。そうすると、その返事が、
「いや、一向そういうことには気がつきませんでした――」

         三十七

「はて」
 ところで、弁信が、はじめて法然頭《ほうねんあたま》をひねり立てました。
 今まで彼は、夜雨をきくことによって、本来の鋭敏なアンテナを張ることを忘れておりました。忘我の瞬間には、勘だの、想像
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