だのというものは働きません。ここで、我《が》が破れて、意外の相手と、意外の問答をやり出してから、弁信が急に、アンテナを張って、自分の特有の機能の働きを逞《たくま》しうせんとするまでもなく、先方が、何のわだかまりもなく、説明の継足しをしていくのです。
「あなたの方の合図にはいっこう気がつきませんでしたが、こちらが、早くお前さんのことを思い出したものですから、いちずに頼みに来たのです。頼みにきたというのはほかではありません、ここへ暫く人間を一人預ってもらいたいのです。単に預るだけではなく、かくまって置いてもらいたいのです、その頼みのために、夜分、こうして三人連れで上りました」
 最初の簑笠《みのがさ》が、ここで、頼みたいこと、頼みたいことと繰返した内容を明らかにしはじめました。
 弁信はそれに答えて、
「おやすい御用でございます、もとより、この住居は先人の住み捨てた庵でございまして、私一人が専有を致すべき筋合いのものではございませんから、御用と内容が許す限り、何人でもおいで下されていっこうさしつかえはございませんが、ただ特にこの離れ島まで、この夜更けに、わたくしを目ざしておいで下さるのが不思議でございます」
「いや、不思議でもなんでもないのです、日中ではあぶないと思うから、夜分上ったまでのことです、弁信さん、それでは当分こちらへ人間を一人預って下さい」
「御念までには及びません、わたくしは依頼されてお預り申すほどの器《うつわ》ではございませんが、御依頼を御辞退いたすほどの不人情も致したくはございません。いったい、ここにおいでになりたいというのはどなたですか」
「農奴です、農奴を一人、預ってもらいたいのです」
「のうど[#「のうど」に傍点]とおっしゃるのは?」
「農奴――農民の奴隷です」
「農民の奴隷――そういうものが、この日《ひ》の本《もと》の国にございましたかしら」
「いや、そう理窟をおっしゃられると困ります、そういう人種が、日本の歴史にあったか、なかったかということの詮議《せんぎ》は、後日に譲っていただいて、とにかく、ある方面で農奴の名を冠せてくれたそれをそのまま借用して置いて、とりあえず、農奴としてあなたにお預けしますから、農奴として暫くお預りが願いたい」
「よろしうございます、わたくしは決して、どなた、こなたと選好《えりごの》みを致すような器《うつわ》ではござい
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