も脚絆《きゃはん》も取ってしまって、座敷へ上り、図々しくも敷きっぱなしの蒲団の中へ、身を丸くしてもぐり込んで、また頭から一枚|被《かぶ》ってしまいました。
 鬼が出たという注進を聞いて、出動したこの家の人数はまだ戻って来ない。彼等は出動のことに急であったために、七兵衛の存在を顧みる暇がなかったのです。そんなら彼等が戻って来て、七兵衛の存在に気がついた時はどうする。
 その時は、その時のこと――と度胸を据えた七兵衛は、そのまま蒲団の中へ温く身を丸め込んだのですが、単に温く丸め込んだというだけで、この場合、温い夢を結ぶわけにはゆかないのです。寝込んでしまうわけにはゆかないが、とにかく、こうして久しぶりに蒲団と名のつくものの中にくるまってみると、身心おのずから休養の気分になる。
 いくぶん休養の気分が出て来てみると、七兵衛は、自分が今こうして、ここまで追い込まれて来たことの径路を考えさせられて、またも我ながらの苦笑を禁ずることができません。
 本来、自分がこういう羽目になったことは、仙台の城下へ足を踏み入れて、青葉城の豪勢なのに見とれた時から始まるのだ。
 なるほど、奥州仙台陸奥守六十二万石(内高百八十万石)のお城は豪勢なものだ。豪勢なものではあるが、おれだって、これで、ほかならぬ天下の江戸城の千枚分銅に目をかけたことのある武州青梅の裏宿の七兵衛だ――という、つまらないところの気負いが萌《きざ》してきたのが、持って生れた病気です。
 その次には、高橋玉蕉《たかはしぎょくしょう》という美人の女学者の家へ忍び込んで見ると、そこの客となっていた田山白雲氏が、しきりに伊達家秘蔵の赤穂義士の書き物のことを話をし、盛んに見たがっている。いくら見たくても、あればっかりは拝見が叶うまいと、閨秀美人《けいしゅうびじん》と豪傑画家とが、しきりに歎息しているのを盗み聴いて、そうしてまたしても、むらむらと敵愾心《てきがいしん》が起って来た。それほど見たいものなら、お城内のお許しがなくとも、この七兵衛が見せて上げる――
 そこで、青葉城の御宝蔵へ、仁木弾正《にっきだんじょう》を決め込んで、その赤穂義士とやらの書き物を、ともかく九分九厘まで持ち出したのだ。
 いや、間違った、間違った、あれは赤穂義士の書き物というのは、こっちの聞誤りで、実は、王羲之《おうぎし》といって、支那で第一等の手書《てかき》の書いた「孝経」という有難い文章の書き物なんだそうだ。
 そいつを、田山白雲先生に見せてやりたいばっかりに、この七兵衛が仙台侯の御宝蔵から盗み出したと思召《おぼしめ》せ。
 そうして、松島の月見御殿の下に、盗人《ぬすっと》のひる寝と洒落《しゃれ》こんでいるところを見出されて、追いかけられたのが運のつき――それから、瑞巌寺というあの大寺の屋根うらの「武者隠しの間」というのに、暫く身を忍ばせていたんだが、なあに――関八州から京大阪をかけて覚えのあるこのおれが、みちのくの道の果てで、ドジを踏むようなことがあってたまるかと、内心、少々くすぐったいような思いをしながらほとぼりの冷めるのを待って、駒井殿のお船へ乗込もうと考えているうちに、思いがけない手ごわい相手が出て来た。
 奥州仙台でも名代の仏兵助という盗人の親分がいて、こいつがおれを取捕まえるために出動して来たのだ。

         百五十五

 単に盗人兇状で、御用役向の目をかすめる手段、或いは足段ならば相当に覚えもあるが、じゃ[#「じゃ」に傍点]の道は蛇《へび》の相当な奴が意地になって、腕にかけ、面にかけて、捕り方に向って来ようというのでは、相手が悪いと七兵衛が考えました。
 役人はお役目であるのだから、熱心なのと、不熱心なのとある。従って厳しい時は厳しいが、放りっぱなしの時は放りっぱなしだ。だが、腕にかけ、面にかけてやる奴ときては、意地で来るのだから執念深い。
 そもそもこのたびの仕事というものが、頼まれたわけではなし、必要に迫られたというのでもない、為《な》さでものことを為したのだ。よせばよかったのだが、持った病では仕方がない。
 岩切の宿《しゅく》で、ちょっとの隙《すき》を見出して、縄抜けをして逃げた、逃げた、やみくもに逃げて、或る川の渡し場へ来た。
 その渡し場で、何かごたごたが起って、若い侍が一人、とっちめられている。聞いていると、どうやら無断で川破りをやって来たものらしい。
 右の若い侍が、素敵に長い刀を差している。それを抜いて見せろ、見せないの一争い、とうとう居合抜きがはじまった。その時の瞬間だ、若い侍が懐ろへ道中手形を納めるその手先を、認められたのがあっちの不祥だ。あれをちょっとお借り申して置けば、これからの道中の何かのまじないにはなるだろうと、気の毒ながら、その手形をちょろまかして、こうして懐中して来ている。
 それから、難なく渡しを渡って、またこうして走りつづけているうちに、この安達ヶ原へ紛れ込んだのだが、東西南北、遠近高低、すべて無茶苦茶だが、足に覚えがあるによって、ちょっとあれから、こうと、何里どちらへ走って、何里こちらへ逃げた。おおよその見当はつくにはつく。せめて一枚の絵図面でもあれば、ここでこうしてひろげて見るうちに、これからの身の振り方もきまるのだが、絵図面どころではない、命一つをやっと持ち出したようなものだ。ただ、この際、仙台を起点としての自分の足心で標準を定めてみるばかりだ、と七兵衛は、自分の走った程度と、方角を、頭の中へ縦横に線を引いてみて、現在の地点が、仙台からおおよそどの方角に、どのくらい離れているということの測定にかかってみると、突然、
「なあーんだ、ぱかばかしい、ここは安達ヶ原でも、黒塚でもありゃしねえ」
と自ら嘲笑《あざわら》いました。
 どうして、どうして、安達の黒塚なんぞは、もう疾《と》うの昔のことだ――ここは黒塚より何十里、何百里も奥へ進んでいる。奥州へ来て、広い原さえ見れば安達ヶ原だと思い、一つ家《や》がありさえすれば鬼の棲家《すみか》だと想像する自分の頭脳《あたま》の御粗末さ加減に呆《あき》れ返る。
 ここが、安達ヶ原でも黒塚でもないという考えは、七兵衛もようやく自分の頭でわかりましたが、鬼のことがまだわからない。安達ヶ原や黒塚は、自分の頭だけの想像のあやまりだが、鬼が出た! ということは、たしかに、今そこで現実の人間たちの叫びであったのだ。現に、ここに集まっていた者がみな出動したのは、その鬼のためだ。安達と、黒塚と、一つ家は消滅したが、鬼の問題は解消しない。重ね重ね変な境に追い込まれたものだなんぞと考えているうちに、つい、うとうとと不覚の眠りに落ちかけようとする。いや、まだここで寝込んではならないぞと頑張る。

         百五十六

 安達ヶ原の黒塚の地位に就いて、青梅の七兵衛が錯覚を起したのを、そう強く責めてもかわいそうです。明治、大正、昭和の間にかけて、まだ解決しきれない学者の間の問題に「法隆寺再建非再建」の問題がありました。
 聖徳太子の創建し給える大和の国の法隆寺は、日本文化の源泉地であり、世界最古の木造建築ということになっている。これが聖徳太子時代に創建せられて、そのままの保存であるか、その後、和銅に於て再建せられたものであるかという論争は、問題としても、人文史上の由々しき大問題であり、学者としても、論争甲斐のある論争に相違ありません。
 吾人《ごじん》は、右に就いて、明治以来、錚々《そうそう》たる学者博士の意見を読みました。近頃は博士号の権威もだいぶ疑わしくなってはいるが、この法隆寺問題の論争に出没する博士たちは、たしかに博士らしいおのおのの権威を見せて、人意を強くするものがある。
 それらの学者博士たちの勇ましい武者ぶりの間に、ひときわ優れて見える一人の博士がある、喜田貞吉博士という。
 いずれ、件《くだん》の学者博士たちの造詣のほどに優り劣りはないとして、再建論者の第一陣、喜田博士の如きは、武者ぶり特に鮮かで、敵も味方も、一応は鳴りをしずめて耳を傾けざるを得ないほどの武者ぶりであるのです。
 ところがその素晴しい喜田貞吉博士でさえが、安達の黒塚には兜《かぶと》を脱いでいる――すなわち右の喜田貞吉博士は、どうした拍子か、安達の黒塚の所在地は、陸前の名取郡の今の秋保温泉《あきうおんせん》のあたりがそれだと明言してしまったものである。そうすると、仙台の国学者小倉博翁をはじめ、藤原相之助、浜田廉、宗形直蔵というような人たちが、否、黒塚は決して陸前の名取郡ではない、岩代の安達郡であると考証したものである。これには、さすがの喜田博士も参って、神妙に兜を脱いでいる。小倉氏のような隠れたる学者の存在は光であるが、これに対して、神妙に兜を脱いだ喜田博士にも学者らしい率直さを見る。
 そういうような次第だから、仙台からは数百里を隔てた武蔵野の中の貧家に生れて、よし、盗みの方にかけては博士以上の天才とはいえ、学問としては、古状揃えか、村名づくし程度以上に出でない七兵衛が、黒塚の所在に錯覚を起したからとて、その無学を笑うのは、笑う方が間違っている。
 なんにしても七兵衛は、奥州へ来て、広い原をやみくもに歩かせられて、それが一途《いちず》に安達ヶ原であることに心得ていた今までの錯覚を、ここで清算し、その安達ヶ原は当然、仙台より西の部分にあって、自分がとうの昔に卒業している。現に仙台以北、南部領の地点へ足を踏み込んでいる自分の周囲が、安達ヶ原であり得ないことだけは夢から醒《さ》めたが、さて鬼の儀はどうなる。鬼の実在は、すでに第三者の口から確実に証明されているのだ。現に、野原から鬼に襲われて逃げて来た馬子がある。残された馬と共にその鬼と闘っているという旅の者と、ここから応援に繰出した新手の者とが、鬼と闘って、負けるか勝つか知らないが、とにかく、最近にその消息がここへ齎《もたら》されねばならぬことになっている。
 ソレ、人声がやかましく近づいて来た。どっちみち、こうしてはいられない。

         百五十七

 七兵衛は心得て、蒲団《ふとん》の中ですっかり足ごしらえをしました。
 そうして、あたり近所を見廻すと、粗末ながら廻し合羽がある。菅笠《すげがさ》が壁にかけてある。七兵衛はそれを取外《とりはず》しました。時にとっての暫しの借用――という心で、前に積み重ねて置いて、なお蒲団を被《かぶ》って、深く寝るというよりは、隠れるの姿勢におりました。
 そうすると、どやどやと夥《おびただ》しい物騒がしさで一行が、この家に戻って来たのです。
 戸があく、土間がごった返す、炉辺がにわかに動揺《うご》めいてきました。十余人が一時に侵入して来たのです。
 七兵衛は心得きって、いざといえばこの裏戸を蹴破って走り出す用意万端ととのえていながら、なおじっと辛抱して、混入して来た一行の言語挙動に耳を聳《そばだ》てている。
 聞いていると、二人三人、怪我をしたものがあるにはあるらしい。だが、喰われた人はない。ただ、馬が、馬が――というのを聞くと、馬だけは犠牲になってしまったようでもある。
 旅の人も無事らしい。それを労《いたわ》る若い者の声、村人の口々に騒ぐ声、土音|拗音《ようおん》でよくわからないが、鬼を、鬼を――という罵《ののし》り声を聞いていると、どうも、鬼を生捕ってでも来たものでもあるらしい。そうでなければ、鬼を退治して、その死体をでも引摺り込んで来たとしか思われない。
 鬼を捕えて来たのか、そりゃあ大したことだ、生きた鬼を見てやりたい!
 七兵衛も、この際とはいえ、これには全く好奇心を動かさざるを得ませんでした。
 果してこの世に、鬼なんぞというものがあるのか。あればこそだ。現に、それをここへつかまえて来ているというではないか。見たいものだなア、一目見て置きたいものだなア――と焦《あせ》ってみたが、ここで飛び出すのはあぶない。鬼でさえ組みとめた連中の中へ、いくらなんでも縄抜けのこの身は出せない。もう少し辛抱したらば、或いは要領よくそれを見届けて脱け出すことがで
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