えって怯《おび》えたような声で、
「おや、誰だえなア、今頃、戸を叩くのは」
「ちょっとお頼み申します」
「誰だえなア」
「ええ、旅のものなんでございますが、道に迷いましてからに」
「旅の衆かエ――まあ、どちらからござらしたのし」
「ええ、西の方から参りました」
「西の方から、では、小平《こだいら》の方からいらしたな」
小平が西だか東だか知らないけれども、七兵衛は、この際、よけいなダメを押す必要はないと考えて、
「はい、左様でございます」
「ほんとかなあ、よくまあ、この夜中に、鬼にも喰われねえで……」
「え……」
と、七兵衛がまた聞き耳を立てました。先方のいま言った言葉の意味は、よくまあこの夜中に鬼にも喰われないで、無事にやって来たな――とこういう意味に相違ないから、七兵衛が先《せん》を打たれてしまったように感じました。鬼に喰われずにここまで来たんではない。これから鬼に対面して、喰われるか、喰うかの土壇場《どたんば》のつもりで来ているのだ。
七兵衛の狼狽《ろうばい》に頓着なく、先方は早や無雑作《むぞうさ》に土間へ下りて来て、七兵衛の叩いた戸を内からあけにかかりながら言うことには、
「よく、まあ、鬼にも喰われずにござらしたのし、お前さん、岩見重太郎かのし」
「いや、どうも、おかげさまで――」
岩見重太郎呼ばわりまでされたので、七兵衛も内心いよいよ転倒恐縮せしめられていると、無雑作にガラッと戸をあけて、面《かお》を現わした主は、鬼どころではなく、人間も人間、人間の中の極めて温良質朴な男です。
「今晩は……」
「よくまあ……」
「恐れ入ります……」
充分に身構えをして見直したのですが、やっぱり、山里に見る普通の百姓|体《てい》の若い者以外の何者でもないし、その肩越しにのぞいて見ても、しきり戸棚の彼方に、人骨がころがっているようなことはない。炉にはよく火が燃えている。これが銀のような毛を乱した婆様でもあると、凄味も百パーセントになるが、こんな普通平凡な田舎男《いなかおとこ》では、化けっぷりに趣向がなさ過ぎる――
と思いながら、七兵衛はこの一つ家の中へ入りますと、男が非常に親切に炉辺に招じながらも、口に繰返して、
「よくまあ、鬼に喰われませんで……」
百五十一
おかげさまで鬼に喰われもせずここまで来たことはごらんの通りだが、そうそう繰返して言われると、ここへ来るまでには、鬼に喰われるのが当然で、喰われないで無事で来たことが意外であったというようにとれる。
もしまたこの質朴な田舎男が、仮りに鬼の化け物であるとしてみると、まさにこれから人を捕って喰おうとしながら、表向き、こんな空々しい言葉を吐くのが、もう既に人を喰っている。
七兵衛は面憎くその男を見直そうとしたが、どうも、憎めない。どう見直しても、鬼がこんな模範青年のような人相に化け得られるはずもなく、またその必要もあるまい。そこで再び、鬼というやつは婆様に化けたがるものである、現に安達の一つ家は、鬼婆アを主《あるじ》としてはじめて有名であり、渡辺綱《わたなべのつな》をたばかりに来た鬼も、婆様の姿をして来たればこそ有効である。世に鬼婆アというものはあるが、鬼爺イというのはあんまり聞かない。まして、鬼がこんな凄味の利《き》かない模範青年に化けたってはじまらないじゃないか。
でも、無気味な感じは持ちながら、七兵衛は、あんまり遠慮もせずに、炉中へ土足のままふんごんで、あたらせてもらいました。
真黒い鍋の中で、何かグツグツと煮ている。無論、米ではない、粟でもない、さりとて稗《ひえ》でもない、薯《いも》でもない。七兵衛は、その鍋の中を判断し兼ねていたが、そうかといって、人間の肝を煮ているわけでもないようです。
そうすると、件《くだん》の男が薪を折りくべながら、
「でもまあ、よく鬼に喰われませんでのし」
またしても……あまりのしつっこさに、七兵衛グッと癪《しゃく》にさわり、
「鬼には喰われなかったが、若衆《わかいしゅ》さん、安達ヶ原の広いにゃ驚きやしたよ」
「へえ――」
相当、壺を言ったつもりなのが、先方はかえってキョトンとして、ねっから響かないのであります。
「安達ヶ原は広いねえ、若衆さん、この家の前にあるのが、あれが、名高い黒塚というのでござんすかい」
「へえ――安達ヶ原のこたあ、わし、よく知りましねえが、昔話に聞きやしたがなっし、それは上方《かみがた》の方の話でござんしょうがなっし」
「何だって……」
あんまり若衆の鈍重ぶりが念入りだものだから、七兵衛の方で、いよいよおどかされ通しです。安達ヶ原と、図星を指したつもりで言ってみても、この鬼の化け物は一向こたえず、それは上方の方の話でござんしょうがなっし、とつん抜けてしまう。そこで、七兵衛が相当突込んで、
「若衆さん、今この一つ家の前で見て来たが、あの人間の喰い散らかし――あの土饅頭《どまんじゅう》が、あれが黒塚というやつではねえのかね」
「ど、どういたしましてなっし」
さすがに、若い男のやや周章《あわ》てて何か弁明に出でようとした時に、戸外がけたたましくバタバタと烈しい人の足音で、
「カ、カ、カン作どん、オ、オ、オニが出たゾウ」
必死に戸へすがりついた人の声。
百五十二
七兵衛も煙にまかれてしまいました。
いったい、安達の鬼は外にいるか、内にいるのか、鬼の化け物であるべきはずの一つ家のあるじが、人のいい若者で、かえって旅人をとらえて鬼物語を誘発する。それにいいかげん悩まされていると、今度は鬼が出たといって助けを求むる声が外から起る。これでは、鬼同士が全く八百長芝居をしているようなものだ。
だが、芝居とすれば、越後伝吉でも、塩原太助でも、立派につとまりそうなこの家の中の若衆《わかいしゅ》は、その声を聞くと、早速立ち上って、戸をあけてやりました。そうすると、その朋輩らしい同じ年頃の若い男が、面《かお》の色を変えて転がりこんで来て、
「とうとう、鬼に出られて、馬さ喰われちゃったでなっし、客人のこと、どうなったかわからねえが、夢中になって逃げて来たぞう」
「そいつは、菊どん、いがねえ、この夜中に、馬なんぞ出しなさるがいがねえ」
「でも、仙台領からの頼みで、どうでも馬さ一匹頼んで飛ばさにゃならねえというお客様がござってなっし」
「そいつぁ、どうも」
「で、鬼さ出るちうて断わり申しただが、鬼さ出ようと、蛇《じゃ》さ出ようと、大切の罪人を仙台領から追いこんだのだなっし、仙台様と南部様の御威勢で、鬼が怖《こわ》いということあるかと、お客人の鼻息がめっぽう荒いもんでなっし」
「そうかや、そいつぁ、どうもならねえなっし」
「夜中に、馬さ出すと、案《あん》の定《じょう》、大っ原で鬼が出やんした――わっしゃ命からがら逃げて来やしたが、お客人のこたあ、どうなったかわからねえなっし」
「それじゃ、どうなったかわからねえで済ましちゃいられねえぞ、客人さ怪我あらせちゃあ申しわけがあるめえなっし」
「そのお客人さ、道中差を抜いて、鬼さきってやしたがね――なかなかお客人も強い人でがんした」
「なんしろ、こうしちゃいられねえ、人を集めて、お迎《むけ》えに行ってみざあなっし」
「そうだ、そうだ」
「おいおい、みんな起きてくんな、鬼さ出たぞよ、鬼が出て、菊どんの馬さ食うたぞ」
中にいた若衆が、こう言って奥の方をのぞき込むと、どやどやと四五人の同じような若いのが飛び出して来ました。
炉辺にあった七兵衛は、最初から熱心にその言語挙動を見ていて、いよいよ化かされ方が深刻になって行くように考えられてたまらない。
そうこうしているうちに、この内外の若い者は、すべて一団になっておのおの身ごしらえをし、得物得物を持ち、松明《たいまつ》を照らして、外の闇へ飛び出してしまいました。
鬼はこの一つ家の中になくて、外にある。そうして今し、馬の背を借りて来かかった旅人を襲い、いきなり馬を喰ってしまったらしい。馬子は一たまりもなく逃げたが、馬上の客は、いま勇敢に鬼と戦っているらしい。いったん逃げ出した馬子は、一目散にここまで飛んで来て、新手を募集して、客人の救援に出かけたという段取りになるが、この段取りを考え合わせてみると、そもそもこうまで念入りに八百長を仕組んで、おれ一人を化かそうというはずもないのだから、鬼は事実、外にあって、ここには善良な村民が、腕っぷしの利《き》く若いのを集めて置いて、万一に備える――とまで七兵衛がたどりついているうちに、ハッと気の廻ったことがあります。
百五十三
七兵衛がハッと気を廻したのは、我ながら抜かったり、鬼に喰われることばっかり考えて、人に追われる身を考えなかった。
この現実を夢物語でないとしたならば、いま馬を雇って野を走らせて来たという旅の人は、このおれを追いかけて来る仙台領の追手ではないか。
そうだそうだ、まさにそうだ。それに違いないのだ。
仙台では、仏兵助《ほとけひょうすけ》という親分の手で、一旦おれは捕われたのだが、岩切でそれを縄抜けをして、ここまで落ちのびたおれなのだ。仏兵助ともいわれようものが、あのままで手を引くはずはない。
今、原を馬で追いかけて、途中鬼に捕まって、ただいま奮闘中だというその旅の人は、おれの身の上にかかる追手なのだ。
そう感づいてみると七兵衛は、
「仙台の仏兵助のために、おれは安達の黒塚へ追いこまれた、仏と鬼を両方から敵に持っちゃあたまらない」
こう言って苦笑いをしたが、事実は存外落着いたもので、
「さあ、今となって、だいぶ腹がすいてきたぞい」
勝負はこれから、まず腹をこしらえてからのこと、それには鼻の先へお誂向《あつらえむ》きのこの鍋――これをひとつ御馳走にあずかっての上で……
炉辺にあり合わす五郎八茶碗をとって、七兵衛がその鍋の中から、ものをよそりにかかりました。
「何だい、これは、食物には違えねえが、異体《えたい》が知れねえ」
その鍋の中のものが、名状すべからざる煮物なので、七兵衛も躊躇《ちゅうちょ》しました。だが、結句、蕨《わらび》の根だの、芋の屑だのを切り込んだ一種の雑炊《ぞうすい》であることをたしかめてみて、一箸入れてみたが、
「まずい――よくまあ、こうまずいものが食えたもんだ」
七兵衛自身もまずい物は食いつけているが、この雑炊のまずさ加減には、舌を振《ふる》ったらしい。
「そうだ、奥州は饑饉《ききん》の名所だってえ話を聞いている、こりゃ、饑饉時の食物だ、餓鬼のつもりで有難く御馳走になっちまえ」
東北大いに餓えたり!
そりゃ、饑饉ということは、関東にも、上方にもある! あるにはあるけれども、東北の饑饉に比べると、こっちの饑饉はお大名だと、子供の時に聞いたことがある。
ある人が、三町ばかり歩いているうちに三十五の行倒人《ゆきだおれ》を見たが、その後では数えきれないから飛び越えて歩いた。あるところでは、一つに二百五十人ずつ入れる穴を掘って、次から次と餓死人を埋めていった。一つの領内で、七万八万の餓死人を出しているのは珍しくない。旅人が家を叩いて見ると、一家みんな餓え死んで、年寄ばかりがひとり虫の息になっている。水を飲もうと井戸に行ったが、ハネ釣瓶《つるべ》が動かない。のぞいて見ると、井戸の中が餓死の人でいっぱいであった――
なんというすさまじい饑饉の物語をよく聞かされた。
それを思うと、この食物ですら、あだにはならない。眼をつぶってかき込んだが、食べてみるとすき腹へ相当に納まる。
七兵衛は、無断で、できるだけの御馳走にあずかってしまい、さてこれから追手のかかっている身の振り方だが、こうなってみると、無暗にあわてて走ってみるのも気が利《き》かない。休めるうちに休めるだけ休んで置くがよい。それには――と七兵衛は、若衆《わかいしゅ》が飛び出した次の間に、まだ蒲団《ふとん》がそのまま敷きっぱなしにされてあるのに眼をくれました。
百五十四
そこで七兵衛は、草鞋《わらじ》
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