わせて本望を遂げさせてやりたいし、このお銀様の頼みも無下《むげ》には捨てられない。ところで、お銀様が説くところを聞いていると、なかなか道理がある、ことにもう一つ、あの女には力がある、それは何の力かというに、金力だ、あれは甲州第一の富豪の娘で、莫大な金力の所有者だ、その金力と、弁力とをもって、われわれを圧迫して来たのだ、こいつには参ったよ」
「では、君たちは、金力でもろくも買収されてしまったのだな」
「そういうわけじゃない、金力があろうとも、弁力があろうとも、その人にそれだけの力がなけりゃ、人を圧服することはできやせん、正直に言えば我々は、お銀様という女に圧倒されてしまって、否応なしに、君にとっては憎まれ役――二人を会わせまいとする役割をつとめてしまったのだ」
「意気地がないなあ――女に圧倒されてしまった仏頂寺」
 兵馬が嘲ると、丸山勇仙が、
「女だって、あの女は少し違うよ、買収と言えば人聞きが悪いが、あの女は使うようにして使うんだ、仮りに買収されたとすれば、僕等ばかりじゃない、君もまた、あの女に買収されていたんだぜ。君の諏訪から今までの道中費は、よそながら僕等が支払った、これは間接に、みんなあのお銀様の懐ろから出ているんだぜ」
「そんなはずはない」
「はずはなかろうとも、事実は争われないのだ。ところで、机竜之助は、あの女が保護している限り、君の手には合うまいと考える。しかしまあ、仏頂寺あるところに丸山があり、宇津木兵馬あるところに旅芸妓がありとすれば、お銀様という女のあるところに机竜之助があるかも知れない、その心持で探し給え」
「で、そのお銀様はどこにいる」
「それは知らない」
 二人がまたクルリと背を向けたところへ、雲煙が捲き込んで来ました。

         百二十四

 愕然《がくぜん》として眼が醒めた時に、
「ホ、ホ、ホ」
と傍らで笑いかけた声は、これは本物であって、夢ではありません。
「どうあそばしたの」
と、いつしか醒めていた女が、夜具の中から腹這《はらば》いになって、短い煙管で煙を吹きながら、流し目にこちらを見ていたのです。
「ああ、うとうといい気持で……」
と、兵馬はテレ隠しをするように言うと、女は、
「何かいい夢をごらんになって……」
「いや、別段――」
と、まだ夢心地で申しわけのように言うと、
「嘘よ、いい夢をごらんになったに違いないわ」
「あんまりいい夢ではなかった」
「そんなこと、ありませんよ、ニコニコとお笑いになって、君、待ち給え、待ち給え――とおっしゃいましたわ。誰のことなんです、どなたをお呼びになったの、憎らしい」
 また流し目で女が兵馬を見ました。手の届くところにいたら、膝をつねったかも知れません。
 兵馬は憮然《ぶぜん》として、まだ夢から醒《さ》めきれません。
 そこで、女はいい気になって、
「おかしいわね、起きて、坐っている人がうわごとを言って、寝ている人に揶揄《からか》われるんだから、世はさかさまよ」
と言いました。
 兵馬はそれを心外なりとしました。果して自分がこの女の言う通りに、うわごとを言ったか、言わないか、それは水かけ論だけれども、眠りに落ちていた醜態を、相当の時間、この女に笑われていたことは事実だ。女の態度を見ると、もうかなり以前に目がさめて、悠々煙草を吹かしながら、じっと揶揄い気味で、自分の舟を漕ぐ様子を見入っていたのだ。
「君は、いつ目が醒めたのだ」
「わたし、お手水《ちょうず》に行きたくなって、それで目がさめちまったの――そうすると、あなたはいい心持で舟を漕いでいらっしゃる」
「うむ、そうだったか」
「ですけれども、あなた、お手水場が、外のあんな遠いところにあるでしょう」
「うむ」
「わたし、一人で行けやしないわ」
「うむ」
「ですからね……あなたに連れて行っていただきたいと思いましたわ」
「うむ……」
「うむうむ、おっしゃったって駄目よ、失礼しちゃうけれども、あなたに連れて行っていただかなけりゃ、あんな遠いはばかりまで行けやしませんもの。でも、あんまりあなたがいい心持で舟を漕いでいらっしゃるから、起して上げるのが気の毒になってしまって……」
「うむ」
「あなたを起して上げるのはお気の毒だけれども、わたし一人じゃ、この夜中に、戸の外へ一寸だって出られやしません」
「意気地がないな」
「そりゃ、あなた方とは違ってよ、怖いわ、狼がいるわよ。そればかりじゃない、なんだか外には仏頂寺が待っていそうで――怖くてたまらないから、とても一人じゃお手水に行けないし、あなたはよく眠っていらっしゃるし、わたしずいぶん気を揉んじゃいました」
 気を揉んだと言いながら、こうもぬけぬけとしているところを見れば、さし当りお手水の方も解決がついてしまったらしい。

         百二十五

「ねえ、宇津木さん、もう何時《なんどき》でしょう、夜が明けるんでしょうか、夜中なんでしょうか、わたし、ちっとも見当がつきませんわ、宵《よい》の口から、真夜中のような気がしてるもんですから」
「そうだな、いやもうかれこれ、夜が明ける時分だろう」
「わたしも、もう寝つかれませんわ、起きちゃいましょうか知ら」
「いや、まだ、そうしてい給え、寒いだろう。どら、一《ひと》くべ火を焚いて進ぜる」
と言って兵馬は、薪を取って火を盛んにしました。女は相変らず蒲団《ふとん》の中に腹這いながら、
「済まないわねえ、わたし、心からあなたにお気の毒だと思ってよ」
「そうお気の毒お気の毒いうな、君たちが心配するほど毒になりはせぬ」
と兵馬が言いました。
「でも、わたしだけが、かりにもお蒲団の中に横になっていて、あなたに、お手水へ連れて行って頂戴のなんのと言ったり、火を焚いていただいたり……」
「やむを得ない」
「ですから、わたし、もう起きちゃいますわ。起きて、あなたと一緒に、その囲炉裏《いろり》の傍でお話をしましょう」
「かえって寒いよ――眠れなければそのままで、話をし給え、拙者がここで、聞き手になって上げる」
「では、このままで、もう少し失礼させていただきましょう」
「何か話をしてくれ給え」
「人の悪口を言いましょうか」
「誰の」
「そうですね――誰がいいでしょう」
「相手を考えて悪口をいう奴もないもんだ」
「仏頂寺の悪口を言ってやりましょうか」
「あれはよせ、あれは見かけほど悪い男ではない」
「胡見沢《くるみざわ》の助平お代官の悪口でも言ってやりましょうか」
「殺された人の悪口などはいけない、たとえ嫌な人であろうとも、ああいうのは、悪口よりは、回向《えこう》をしてやるのが本来だね」
「本当ね、ではそうそう、お蘭さんならいいでしょう、あの人なら、きっとぴんぴんして、どこかで、またいいかげんな人を相手にうじゃじゃけているに違いないわ、あんな人こそ、思いきり悪口を言ってあげた方がいい」
「いや――あれも、君が憎むほどの悪人じゃあるまいぜ、第一、君にこのお手元金を取られてしまって、さぞ残念がってるだろう――そのうえ悪口を言われてはたまるまいからな」
「それもそうですね、あたりまえなら只で置く女ではないのですが、罰金が取上げてあるから、暫く許して置いてあげましょう」
「それがいい」
「では、誰の悪口にしましょうね、誰も悪口を言う相手がないじゃないの」
「相手がなければ、悪口を言わんでもいい」
「でも、悪口を言わなければ、話の種がないじゃありませんか」
「話の種というのは、悪口に限ったわけのものじゃあるまい、何か罪のない、面白い世間話をし給え」
「罪のない話なんて、ちっとも面白かないわ、罪があるから世間話の種にもなるんじゃないの――では、わたし、自分のおのろけ[#「おのろけ」に傍点]でも言って、あなたに聞いていただこうかしら」

         百二十六

「結構だね、大いにやり給え」
と、兵馬もこのところ、大いにさばけてこう出たのに、女がかえって尻込みをして、
「よしましょうよ」
「よさなくってもいいから大いにやれ」
「いやです。第一、あなた、こうして山小屋の中へ木屑同様におっぽり出されて、手の出し手もない女が、おのろけもないじゃありませんか」
「今はなくても、昔はあったろう、これからまたあるだろう、それを盛んに並べて見給え」
「昔を言えばねえ、よしんばあったところで、おそらく、追いのろけは気が利《き》かない骨頂ですからねえ。これからあるだろうとおっしゃったって、あなた、未来のおのろけを語るほどおめでたい話もありませんねえ。いったい、どちらにしましても、芸妓《げいしゃ》のおのろけなんていうものは、おのろけの中に入りません」
「悪口もいけず、惚気《のろけ》もいけない――」
「ですから、あなたのを聞かせて頂戴な、素人《しろうと》のお惚気は本当のお惚気なのよ、それを承りましょう」
「僕に、そんなものはない」
「ないことないでしょう……仏頂寺さんから種が上っています」
「亡くなっている仏頂寺を証人にとれば何でも言える」
「あなた、ずいぶん、江戸の吉原で苦労をなさったそうですね」
「そんなことはないよ」
「ないことがあるもんですか――いくらお体裁を飾っても、わたしたちの目から見れば、一度でも遊んだことのある人と、ない人とは、ちゃんとわかりますよ」
「見るように見る人の勝手だ」
「あなたという方もわからない方ね、一度でも遊んだ覚えがあるくせに、いやに角《かど》がとれない」
「何でもいい、要するに、こっちには、面白くおかしく話して聞かせるほどの世間話も、身の上話もないが、君の方は世間慣れているから、種があるだろう、何でも、心任せに話してくれないか、修行中の僕等は、なんでもかでも善智識の教えとして聞くよ。少なくとも、君は僕より年が幾つか上だ、先輩だと思って尊敬して聞くから、何でも話してくれ給え、それを身にするか、骨にするかは、こっちの聞き方一つなんだ、悪口、結構、惚気をやるも苦しくない――話し給え、話し給え、こっちは聞き役だ」
と兵馬は、かなり歯切れよく言いましたものですから、女も諦《あきら》めたと見えて、
「それでは一つ、面白い話をして聞かせますから、聴いて頂戴――」
と言って、腹ばっていた女は煙管をほうり投げて、くるりと寝返りを打ち、箱枕を、思いきってたっぷりした島田くずしの髱《たぼ》で埋めて、蒲団をかき上げるようにして、ちょうど兵馬の坐っている方とは後向きに寝相を換えたのですが、その時、肩から背筋までが、わざと衣紋《えもん》を抜いたように現われたのを、そのまま、あちら向きで話しかけました。
 おなじ話をはじめるならば、寝ているにしてからが、こちらに向き返って話したらよかりそうなものを、わざとあちら向きになって改まったのは、襟足や、首筋や、肩つきを、思い切って開けっ放して見せつけた失礼な仕打ちだ。
 兵馬はそのだらしない乱れ髪と、襟足と、女の肩から背へかけての肉つきというものを、まざまざと見せつけられたが、女としては見せつけたのではない、こういうだらしのないのが、こういう女の作法だろうとも思いました。

         百二十七

 女は寝ながら、次のような話をはじめました。
 それを書き下ろしてみると――
 昔、同じ藩中の人に殺されたお武家がありました。そのもとの起りは、奥様から起ったのだそうです。そこで、まだ子供はなし、力になるほどの身寄りもないけれど、この奥様は、なかなか気象の勝った奥様でございまして、夫の敵《かたき》、もとはと言えば自分から起ったこと、これをこのままにして置いては、女ながら武士道が立たない。といって、身寄りには一人も力になるのはないのです。そこで雄々しくも自分の夫の敵討願いを出して、旅に出ることに覚悟を決めました。
 ところで、家には、夫の時代から愛し使われた若党が一人あるのです。若党といっても若いとはきまっていないけれども、この若党は真実年も若し、それに身体《からだ》が達者で、腕も利き、万事に忠実で、亡き夫も二無きものと愛して召使っておりました。
 この若党にも暇をやって、奥様はひとり敵討の旅に出ようとしま
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