これは仏頂寺君らしくもない遠慮だ、なかへ入り給え」
「止そうよ、悪いから」
「何が悪い」
「おたのしみのさまたげをしては悪いからな」
「ばかなことを言え」
と兵馬は躍起となりました。ところが、外なる仏頂寺の声はいとど平然たるもので、
「馬鹿ではないよ、そこは仏頂寺も心得ているよ」
「いやに気を廻す、仏頂寺君らしくもない言いぶりだ、かまわないから、戸を押して入ってくれ給え」
「いけないよ、ここで話そうよ、我輩《わがはい》は外に立っている、君はなかに居給え」
「どうも、気が知れない、この夜寒に外に立ちつくす君の気が知れない、といって、僕ばかりなかにあたたまっていて、君を外に置いて話もできないではないか、なかへ入ってくれ給え、実は都合あって、一時、君の目を避けていたのだが、こうなってみると、聞きたいことが山ほどある、入ってくれ給え」
「いやだよ――こっちはかまわないから、君だけはそこにいて、いま言ったな、何かこの仏頂寺に聞きたいことがあると言ったが、ずいぶん知っていることは聞かせてやろう、遠慮なくたずね給え、こっちにも君には大いに話して置きたいことがあったのだ、峠で逢えずにしまったのを残念に心得ている」

         百二十

 宇津木兵馬は、仏頂寺弥助の柄にない遠慮ぶりが不審でたまりません。
 いつもならば、案内がなくとも闖入《ちんにゅう》して来る男である。
 今夜はいやに遠慮しているうちに、その言う言葉つきがなんとなく冷たい。戸一枚を隔《へだ》てて話をしているようだが、実は幽明を離れて応対しているような心持がしないではない。
「おい、宇津木、うまくやってるな」
と、もう一つ別な声が同じく戸の外から聞えて来ました。
「誰だい」
「わからないかえ」
「もう一ぺん――」
「わかりそうなものだね、僕だよ」
「あ、君は丸山君だな」
「そうだよ、そうだよ、仏頂寺あるところに丸山ありだ」
「君も――」
「仏頂寺と一緒に、うろついて来たよ」
「君も無事で――」
「無事であろうと、有事であろうと、そんなことはいいじゃないか」
「なんにしても意外だ――しかし、何はともあれ、入り給え、今も仏頂寺君にそう言っていたんだが、仏頂寺君がいやに遠慮をしている、変だと思っているところだ、君からさきに、こっちへ入って来給え」
「いや、せっかくだが、僕もよそう」
「どうして」
「どうしてったって、悪いから」
「何が悪い」
「おたのしみのさまたげをしては悪いからな」
「君までが……けしからん」
と、兵馬はまたも気色ばんで詰問の語気になると、戸の外でどっと笑いました。
 その笑った声は、仏頂寺弥助と丸山勇仙と、二人の混合した声なのでしたが、その笑い声を聞いて、はじめて兵馬がゾッとした鬼気に襲われざるを得ませんでした。そうするとまた同時に、
「何が怪《け》しからん」
と外で言ったのは、丸山勇仙の声です。兵馬は直《ただ》ちにそれに応じて言いました、
「怪しからんじゃないか、おたのしみだの、おさまたげだのと、奇怪千万な。人を見て物を言い給え」
「は、は、は」
とまた外で、二人が声を合わせて笑い出したから、
「何がおかしい」
 兵馬が、むっとしてたしなめると、
「だっておかしかろうじゃないか、芸妓《げいしゃ》を連れて道行をすれば、これがおたのしみ[#「おたのしみ」に傍点]でなくて、世間のどこにおたのしみがあるのだ、おたのしみをおたのしみと言われて、腹の立つ奴がよっぽどおかしい」
と言ったのは、やはり丸山勇仙の声であって、同時に、
「は、は、は」
と笑ったのは、二人の合唱です。
「いよいよ君たちは邪推者《じゃすいもの》だ」
 兵馬が怒ると、外で抜からぬ声、
「我々の邪推じゃないよ、粋《すい》を通しているのだよ。いいかい、我々がこれほど粋を通してやっているのを、悪くとる宇津木君、君はねじけ者だ。いったい、君は我々を厄介者のようにして、常々けむたがっているようだが、それが大きな了見違いだよ、君のために、我々が計って不忠をしたことがあるかい、こう見えても仏頂寺と丸山は、人情主義者なんだ、君のような不人情漢とは性質《たち》が違う」
 丸山勇仙は弁舌が軽い。兵馬はついそれに釣り込まれて、
「いつ、拙者が不人情をした」
「は、は、は」
とまた外で、二人が声を合わせて笑いました。

         百二十一

 どっと笑ってから、丸山勇仙がまた抜からぬ声で言いました、
「まあ、おそらく君ぐらい不人情な男はあるまいよ。我輩の如きは、君も見て知っているだろうが、小鳥峠の上で、仏頂寺と見事に心中を遂《と》げたんだ、仏頂寺の友誼《ゆうぎ》に殉《じゅん》じたんだぜ。僕はなにも先んじて死にたかったわけじゃないんだ、仏頂寺が死にたくなったというから、驚いて差留めたくらいなものなんだ。だが、理由を聞いてみると、留めることができなくなったよ。いや、理由もなにもありゃしないんだ、理由なき理由なんだね。そこで、仏頂寺がどうあっても腹を切るというから、それなら、おれも一人じゃ生きていられない、君が刀で腹を切るなら、おれはお手前物の毒薬を飲む――君も知ってるだろう、おれは長崎で蘭医の修業をやりそこねた書生くずれなんだ、そこで、仏頂寺とああやって心中を遂げたんだが、ずいぶん苦しかったぜ。しかし、今はいい心持だよ――ところで、君はどうだ、我々がこうして美しく人情に殉じていることがわからず、それに一遍の回向《えこう》もせず、とむらいの真似《まね》もせず、一途《いちず》に後難を怖れて、知らぬ面《かお》に引上げてしまったじゃないか。それもまあ、事情やむを得ぬとして、君は我々に見換えても、その女を保護する役目を買って出たのは感心だ、今度はしっかりやれよ、いったん引受けた以上は、最後まで見届けるんだぞ、仏頂寺弥助と丸山勇仙の二人に見換えて、旅芸者一人に人情を尽してみたい君なんだから、今度はいいかげんにおっぽり出すと承知しないぞ」
 能弁な丸山勇仙がしきりにまくし立てる。兵馬はそう言われると、なんだか自分の重大な弱味をあばかれでもしたような気持がして、ちょっと返答に窮していると、今度は外で仏頂寺弥助が代って言いました、
「宇津木、まあいいよ、そんなことは丸山の愚痴だ、我々は勝手に行きたいところへ行こうとして、その目的を達したんだから、あえて君に見送られようとも、見送られまいとも、それを言い立てる我々じゃない、我輩と丸山とは、こうして円満に人情主義をやり通したが、君のはあぶないぜ――これからが危険なんだ」
「それは知っているよ」
と兵馬が、とってもつかぬように内から答えますと、丸山勇仙が、
「危険というのは、君、白山白水谷の危険という意味ばかりじゃないぜ」
「それも、これも、承知の上なのだ、無益な問答をするよりは、なかへ入り給えと言うに」
「こっちはこれが勝手だと言ってるんだからいいじゃないか。では、丸山、このくらいで引返そうではないか」
と仏頂寺が丸山を促したらしい。そうすると、丸山勇仙が、
「そうだね、この辺で引上げるとしようか、では、宇津木、大事に行けよ」
「君たち、帰るのか、あんまりあっけないではないか」
「いや、そのうちまた、どこかで逢う機会もあるだろうよ、大事にし給え。それから君、なお念をおして置くが、君の旅路も明日あたりから、そろそろその危険区域に入るんだぜ、気をつけ給えよ」
「ありがとう――」
「明日あたりから君、畜生谷が現われるんだぜ、しっかりし給えよ」
「畜生谷とは?」
「畜生谷を知らんのか――白山白水谷のうちに、有名なる畜生谷というところがある――そこへ落ち込んだら最後、浮み上れないのだ」

         百二十二

「さようなら、宇津木」
「宇津木君、失敬」
 二人は、ついに行ってしまいました。
 兵馬は柱にもたれたまま、それを引留めたい心でいっぱいでありながら、ついに戻れという機会を逸してしまいました。
 それは会話なかばに、とても眠くなって眠くなってたまらなくなり、うっとりと失神状態に陥ったところを、二人に無造作《むぞうさ》に立ちのかれてしまった。そこに気がつくと、何とも言えない空虚を感じ出して、そのままその座を飛び立って、戸の外へ走り出しました。
「おーい、仏頂寺君――丸山君」
 声を限りに呼びながら、兵馬は二人のあとを追いかけたのです。
 無論、そのくらいですから、草鞋《わらじ》をつける余裕もなく、有合わす履物《はきもの》もなく、戸を押したか開いたかそのこともわからず、仏頂寺と丸山とが、東へ行ったか、西へ行ったか、その痕跡に頓着もなく、兵馬はやみくもに走り出したのです。
「おーい仏頂寺君、おーい丸山君」
 こう言って、続けざまに叫び且つ走りました。
 道は、山が高く頭上を圧し、谷が羊腸《ようちょう》として下をめぐっている。谷の底から実に鮮かな炎が、紫色の煙と共に吹き上げている。
「ははあ、あの二人が畜生谷と言ったのが、これだな、畜生谷……」
 兵馬はその異様な谷を見渡すと、谷をめぐる一方の尾根を縦走しつつ、談笑して行く二人の者の姿を遥《はる》かに認めて、
「おーい、仏頂寺君、丸山君、待ち給え、待ち給えよう」
 この声で、豆のような姿に見えた縦走の二人が、歩みを止めて、こちらを見返りました。息せき切った兵馬は、
「あんまりあっけないから、追いかけて来たのだ、でも、追いついてよかった」
 とはいうものの、あちらは遥かに峰の高いところにいる。
「何だ、宇津木、何しに来た」
と、仏頂寺が上から見おろして答える。兵馬は谷間に突立って、
「大切のことを君たちに聞き落したから追いかけて来たのだ、ちょっと、もう一ぺん戻ってくれないか」
「もう駄目だよ」
 仏須寺が頭を振るのがよくわかる。そうすると、丸山勇仙が、
「もう駄目だよ、君と僕たちとの距離は、単に山の上と下だけの距離じゃないんだ、我々は君のところへ下りて行けない、君は、我々のところまで上って来られない、そこにいて話をするさ」
「ちぇッ」
と兵馬は、それをもどかしがりながら、思いきって、
「では、ここで君たちにたずねたいが、机竜之助は今どこにいるのだ、君たちが隠したとは言わないが、たしかにそれを知っているように思われてならぬ、それをひとつ明かして行ってくれ給え」
「なに、机竜之助?」
「うむ、机竜之助の行方《ゆくえ》だ」
「おい、丸山」
と、これは仏頂寺の声で、兵馬の問いに答えたのではなく、丸山勇仙をかえりみて、とぼけたような声で、
「君、机竜之助とかなんとかいう人物を知っているかい」
「何だって、机竜之助?」
 丸山勇仙が、またとぼけた面《かお》をしているので、兵馬がむっとしました。

         百二十三

「君たち、しらを切ってはいけないよ、君たちが机竜之助を隠している。隠していないとすれば、少なくとも拙者が竜之助にめぐり会うべき機会を妨げた――信州の諏訪以来、覚えがあるだろう」
と兵馬から厳しく、こうたしなめられると、はじめて二人が気がついたように、面を見合わせて、
「ああそうか、あのことか、あれか」
「どこにいるか、その在所《ありか》を教えてくれ給え、明白に言えなければ、暗示だけでも与えてくれ給え」
 兵馬が畳みかけて追い迫ると、仏頂寺は呑込み面に、
「あれはな、宇津木君の推察通り、いささか妨げをしてみたよ、意地悪をしたわけじゃない、人から頼まれたんだ」
「誰に頼まれた」
「それは、甲州の豪族の娘で、俗にお銀様といって、なかなかの代物《しろもの》だ、その人に我々が余儀なく頼まれてな」
「うむ、あのお銀様という女――あれなら僕も知っている」
と、兵馬もそう答えざるを得ませんでした。そうすると仏頂寺が、
「あのお銀様という女に頼まれてな、宇津木兵馬が、机竜之助を兄の仇《かたき》だと言って、つけ覘《ねら》っている、これから信州の白骨へ行こうとする、会わせては事が面倒だから、どうか、二人を会わせないようにしてくれと、我々に頼んだのだ」
「そうか。そうして、それから?」
「そこで、我々はちょっと迷ったよ、宇津木のためには、早く会
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