上だけを見つめているらしい。遠く人の気配を見ているのではない、地上ばかりを伏目になってじっと見てらっしゃる。
おかしいわね!
福松にも、兵馬のその凝結した形の所以《ゆえん》がわからないのです。兵馬は峠の上に通りかかった仏頂寺の動静を見に来たのですから、どうでも遠目に人を見る形になっていなければならないのに、地上ばっかり見ている。その形が福松にはわからない。わからないなりに、我慢して待っていても待っていても解けない。あのまま石になってしまったのではないか。
百十六
じりじりと、我慢しきれない福松は、そのままじりじりと一歩一歩兵馬に近づいて行ったが――あんまり静か過ぎるのでつい、声をかけてしまいました。
「宇津木さあん――何してらっしゃるのよ」
「あっ!」
と、女から叫びかけられて、兵馬が呼び醒まされたのです。
立ち尽している兵馬は、驚愕の目をあげてこちらを見ましたけれども、それは、夢から醒めたような驚愕で、なぜ来た! 怖いから来るな! というような暗示は少しもなかったものですから、福松ははたはたと走り寄って来ました。
「宇津木さん、何をぼんやりしていらっしゃるの、待つ人の気も知らないでさ」
「そんなどころではない」
「どうしたんですのよ、あなた」
甘えた言葉つきで駈け寄って来たのは、何か事ありげには相違ないが、危険性は去っている! こう見て取ったものですから、飛びつくように駈け寄って来て見ると、兵馬の眼の前に人間が二人、倒れていました。酔い倒れているのではない、血を流して斃《たお》れ伏しているのだ。
「あれ――」
福松は兵馬の後ろへ、文字通りにしがみついてしまいました。
それでもまあ、気絶はしないで、ようやく落着きを取返しているうちに、兵馬から委細の事情を聞きました。
聞いてみると、二人はここで最後の酒宴を催した後、枕を並べて一種異様の心中を遂げたのだ。仏頂寺弥助は太刀を抜いて腹を掻《か》き切っている――その膝の下に丸山勇仙がもがき[#「もがき」に傍点]死《じに》に死んでいる。これはべつだん負傷はないが、傍らに薬瓶らしいものが転がっている。毒を呑んで死んだと思われる。何のために、何が故に、ここで二人は枕を並べて死んだか、それは分らない。
兵馬と福松とが、悪い相手を外そうとして隠れている間に、二人は死んでいたのだ。こんな野立てで酒宴に浮かれ出した、手がつけられない、と隠れた二人は苦り切っているうちに、仏頂寺と丸山は、断末魔の苦境に進んで行っていたのだ。
両箇《ふたつ》の屍骸《しがい》の前に、兵馬と福松は色を失って立っているが、さて、手のつけようのないことは同じです。
手のつけようがないのみならず、うっかり手をつけることがかえっていけない。
「どうしましょう」
と女がおろおろ声で言う。
「どうにも、こうにも、全く手のつけようがない」
「かかり合いになるといけませんね」
「不人情のようだが、このまま、そっくりこうして残して置いて、知らぬ面《かお》にあとを晦《くら》ますより仕方がない、気の毒には気の毒千万だが」
「覚悟の上でしていらっしゃるんだから、こうして置いてあげましょうよ、そうして、わたしたちは早くこの場を立ちましょう、こうしているところへ、人が通りかかってごらんなさい、わたしたちが証人にならなければなりません、そうなればまた高山へ呼び戻されなければなりません、あなたはいいとして、それではわたしが困ります、高山へ戻れば、わたしは助かりません、責め殺されてしまいますよ、知らない面をして行ってしまいましょうよ、知らない面をして……不人情のようですけれど」
芸妓《げいしゃ》の福松は、人情を立てれば身が立たない思惑《おもわく》から、兵馬を促し立てました。
百十七
かくて宇津木兵馬は、芸妓の福松を先に立てて、小鳥峠を下りにかかりました。
後ろには仏頂寺、丸山の血みどろの世界がある。前には、鬢《びん》の毛のほつれた、乳のように白い女の襟足がある。
自分の足どりが重いのは、ぐるぐると展開する地獄変の世界の悩みばかりではない、懐中には三百両という大金が入っている。これは高山の新お代官|胡見沢《くるみざわ》の愛妾《あいしょう》お蘭どののお手元金であったのを、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百というやくざ野郎がちょろまかして来て、それをこの芸妓の福松に預けて、預けっぱなしになってしまったそれです。
三百両の金は重い、兵馬としても、今までにこれだけの金を持ったことがない。いま一緒に旅をするようになったこの女は、この金は当然、自分たちに授かったものだから、自分たちがこれからの身の振り方の用金にする――
女は言う、三百両のお宝があれば、二人水入らずで日本中の名所めぐりができます――また言う、わたしの知っている加賀の金沢へ落着いて、そこで、この三百両のお宝を資本《もとで》にして、自前で稼ぎましょうよ、あなた兄さんになって頂戴――あたし、あなたには何も苦労させないで、立派に過して見せますよ。
ばかな――芸妓屋の亭主気取りで納まっていられる身と思うか。
それはそれとして、こうなってみると、この女との縁はここでは切れない。加州金沢へ落着きたいと言っているが、とにかく安心のできる人里までは送り届けてやらねばならない腐れ縁だ。
腐れ縁といえば、信州の浅間の湯から、この女にとりつかれている。浅間の湯の祭礼の晩、この女が酔っぱらって、おれの寝床の中へもぐり込んで、グウグウ寝込んでしまった時からはじまっている。それが、ゆくりなく、中房の湯で、またぶッつかってしまった。やがて、この女に甘えられて、中房から松本まで月の夜の道行とまでなったが、途中でこの女は、仏頂寺、丸山にさらわれてしまったのだ。
たよられる義理はなかったのだが、たよられてみての上で、見届けることをせず、みすみす仏頂寺の鬼手に任せてしまった後は寝醒めがよくなかった。それから白骨の湯――平湯峠――高山へ出て、またこの女にぶっつかった。
たずね求める兄の仇机竜之助なるものには、どこをどう探っても行き当らない。掴《つか》み得たかと思うと、さらりと抜けられる。求めんともせざるかよう[#「かよう」に傍点]な女のためには、それからそれと附纏《つきまと》われる。女の方でも必ずしも附纏う気はないのだ。また、自分としても、女に附きまとわれたり、食いつかれたりするほどの罪を作っていないのに、おたがいは、絶えず右と左から堂々巡りをし合って、ばあ――とも言えず、またかと苦笑いしながら、手を取り合っている。
手を取り合うといったところで、手に手をとって鳥が鳴く東路《あずまじ》……というようなしゃれた道行ではないが、女は兵馬をたよるように出来、兵馬も女を見てやらなければならないように悪く出来ている。これから、名にし負う飛騨の山谷を越えて、加賀の里へ出るまで、この女との二人旅、兵馬はそれを思うとうんざりせざるを得ない。
そうこうしているうちに、日も暮れる、さし当ってはまた今夜の宿だ。
百十八
しかし、その日は、とある山宿に宿を求めることができました。
山宿といったところで、この辺は、特に宿屋を営んでいるというものはなく、頼めばどこでも泊めてくれる。
だから、特に客座敷というものもない。木地《きじ》小屋が空いているからといって、そこへ泊めてくれました。
別座敷へ特に優遇の意味です。
兵馬は、女がすすめるのも聞き入れず、草鞋《わらじ》を取っただけの旅姿で夜を明かすべく、炉辺の柱にもたれていました。
「わしは旅に慣れているから、これでよろしい、君は慣れない身でもあり、薄着で困るだろう――」
と言って、自分の合羽《かっぱ》をまで女の薄い蒲団《ふとん》の上に投げかけて与えました。
女は、いろいろとお詫《わ》びしながら、先に寝入ったのです。
この小屋は、特に木地の細工をするために建てたのですが、壁がありません。がっちりとした板囲いです。
夜もすがら室内の気温を保つ意味に於て、絶えず適当の焚火《たきび》を怠りませんでした。
疲れが出たものか、女はすやすやと寝入ったようです。
兵馬としては、こういう旅の宿りは今にはじまったことでないが、ただ気がかりになるのは前途のことです。およそ白山《はくさん》、白水谷を越えて、飛騨の国から、加賀へなり、越中へなり、出ようとする道は、道であって道でない。
こういう道を踏み破ることは、自分はあえて意としないが、この女連れだ。この女は、こうして行けばひとりでに白山へも登れるし、金沢へも出られると心得ているらしいが、さて、明日からの旅の実際の味を嘗《な》めさせられてみると、へたばるのはわかりきっている。今晩はここで宿があったからいいが、明日の晩からの宿りは当てがないのだ。
よし、明日になったら、ひとつ案内人を求めてみよう。それから、馬が通うか、通わないか、山駕籠を金沢まで通して雇えるものか、雇えないものか――そのへんもひとつ確めてみてやろう。
体《てい》のいい駈落者だ。駈落ならばまだ洒落気《しゃれっけ》もあるが、実はこの女のために、体のいいお供を仰せつかったようなものだ。それもよろしい、自分はこのごろ観念した。
すべて、追い求めるものは与えられないように出来ている。求めざるものが降りかかって来るようにこの世は出来ている。そこで自分は観念したのだ、決して追い求むるもののためにあせる[#「あせる」に傍点]まい、降りかかって来たものを避けまい。
これが、このごろ出来た自分の一つの公案なのだ。降りかかって来たものを蹴飛ばすまい、落ちて来たものは最後まで受留めてみせる――怖ろしいことでも、辛いことでも、いやなことでも、嫌いなことでも、なんでもかでも、落ちかかったものを、じっと最後まで受留めてみよう。これをもって平常底の行持《ぎょうじ》とすることに決定《けつじょう》する。
そこで、この女に対してすらが、もうこうなった以上は、以前のように振り捨てまい。振り捨ててしまえば、また仏頂寺に攫《さら》われる。いや、仏頂寺はすでにこの世に亡き人だが、仏頂寺以外の奴にさらわれる。さらわれたってかまわないようなものだが、その尻拭いがまたこっちへ報って来るのだ。今度はひとつ、女の言いなりになって見せる。それが修行だ。
百十九
兵馬が柱にもたれて、うつらうつらしていると、外で夢路をたどるように人の叫び声がある。
「宇津木、宇津木」
「はっ」
と兵馬は我に返ったが、どうも気のせいか、その声が、仏頂寺弥助の声のように思われてならないから、
「誰だ」
「おれだよ」
「誰だ」
兵馬はもう一度、念のために耳を傾け直すと、
「おれだよ」
「誰だ」
「声でわかりそうなものじゃないか、仏頂寺だよ」
「やあ、仏頂寺君か」
「まあ、いいよ、そうしておれよ」
戸の外からしきりに声をかける仏頂寺の言葉つきは、存外、落着いたものでありました。そうして、たしかに仏頂寺の声に相違ないと、兵馬の耳にはとおるのです。
「君は――君は」
と兵馬が少し気色《けしき》ばんで吃《ども》ると、外から仏頂寺の声で、
「そう驚かんでもいいよ、小鳥峠の上で立派に腹を切った拙者が、こうして、うろついて来たから、君は狼狽《ろうばい》しているだろう、あわてるな、あわてるな」
「あわてはしないけれども、君はどうしてここまで来たのだ」
「どうしてだっていいじゃないか、今更そんな野暮《やぼ》を言うない、仏頂寺は、君と知った時以前から亡者なんだ、亡者として、ふらふら旅をした身の上は、君も聞いて知ってるだろう、仏頂寺弥助は加茂河原で、北村北辰斎のために斬られているのだ」
「では、小鳥峠の上で自殺したのは、ありゃ誰だ」
「誰だっていいじゃないか、亡者となってみれば、死にかわり、生きかわり、ふらふらと盲動するのが身上だ」
「では、なんにしてもなかへはいったらどうだ、焚火もよく燃えているよ」
「いや、はいるまい、はいっちゃわるいだろうな」
「
前へ
次へ
全56ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング