て悪いという理由はさらにないのです。
 しかし、仮りに神尾主膳をして大名の格式を持たせた時には、下に下にの下座触《げざぶれ》で、百姓を土下座させて歩く権式を与えられていたかも知れないが、いかなる将軍大名といえども、眼ざわりであるが故《ゆえ》に斬ってよろしいという百姓は一人もないはずです。神尾が今日、人を斬ったのは、毫末《ごうまつ》も先方が無礼の挙動をしたからではない。
 百姓町人が武士に対して無礼を働く時は、それは武士の面目のために斬り捨てても苦しうないという不文律はある。それはあるけれども、そういう場合ですら、斬らずに堪忍できる限り、堪忍するのが武士の武士たる器量である――という道徳律もある。今、ここで通りかかった百姓は、果して水戸在の百姓であったかどうか、分ったものではない。ただ通りかかったというだけで、なんらの宿怨《しゅくえん》も、無礼もあるものではない。
 強《し》いて言えば、向うが突き当ったというけれども、先方が突き当ったというよりは、神尾の歩きぶりに油断があったのである。それを一言の咎《とが》め立てもなく、理解もなく、やみくもに斬りつけたのだから、誰がどう考えても理窟はないのです。それはまだ、夜陰に乗じて無断で人を斬る流儀もあるにはあった。しかしそれは「辻斬り」という立派な(?)熟語まで出来ている変態流行である。時としては、刀の利鈍を試むるために、手練の程度を確むるために、或いは胆力を養成するために、この変態の殺人を、暗に武士のみえとした風潮もある。今いうような単に「無礼討ち」ということは有り得るが、神尾のように白昼、無茶に斬りつけるということはない。「昼斬り」「町斬り」というような熟語は、まだ出来ていない。
 そこで神尾は、自分の行動の全く無茶であったことを考えずにはいられなかったのですが、そうかといって、決して後悔や憐憫《れんびん》を感じたのではないのです。罪なき百姓を斬ってかわいそうだと思いやり、我ながら浅ましいことをしてけり、と後悔の発心をしたわけでは微塵ないのです。百姓なんぞは幾人斬ってもかまわない、このくらいのことで、済まなかったと考える神尾ではないが、ここで捕まれば一応再応は吟味を受ける、そうなると必ず自分の分が悪くなる、そこで、取押えられてはならない、この場合は一刻も早く逃げなければならない、何を措《お》いても身を隠すことが急だ! それよりほかに手段はない。
 無茶な罪跡を隠すためには、やみくもに自分の姿を隠すよりほかはない、と醒めた瞬間にそう気がついたものですから、そこで神尾は走りました。この時の走り方は、方向を選ぶの余裕がありませんでした。一時はもと来た根岸の方向へと思いましたが、また同時に、それはかえって危ないというような本能的のひらめきで、小路、裏路へ向けて走りました。

         百十三

 自分ながら、どこをどう逃げて、どう落着いたか分らないが、ふと眼が醒めて見ると、神尾主膳は、あたりが全く暗くなっていることと同時に、けたたましい題目と磬《けい》の音とが、耳に乱入して来るのを聞きました。
「ははあ、日が暮れてしまったのだ、あの音で思い出した、そうだったか」
と、自分の身が、薪小屋の中に積み重ねた薪と薪との間のゆとりの中にいることを発見しました。
 不思議でもなんでもない。あれから、自分はここへ逃げ込んで隠れたのを、隠れているうちに不覚にも、つい一睡に落ちてしまっていたのだ。この寺は何という寺だか知らないが、やかましく磬を叩いて、お題目を唱えているところを見ると、法華寺《ほっけでら》に違いない。
 寺が法華であろうと、門徒であろうと、自分にかかわりのあることではないが、この境内《けいだい》へ逃げ込んで、この薪小屋の中で救われたのは事実だ。ここでホッと安心して、ついうとうと睡魔に襲われているうちに、目をあいて見るともう夜だ。
 夜に遅い早いはないというが、遅かれ早かれ、この際、夜になっていたことは仕合せでありました。夜陰ならば、この姿で、けっこう大手を振って根岸まで帰れるのだ――目が醒《さ》めて、あたりが暗くなっていさえすれば、時間に頓着する必要は少しもない。
 そう気がつくと、神尾はむっくりと起き上って、衣服の塵をはたはたとはたくと、この薪小屋から未練もなく忍び出したのですが、どちらを見ても真暗です。
 暗いところをたどりたどり、表本堂の方へは出ないで、墓地の方の淋《さび》しい裏へと歩き出して見ると、この寺の墓地の区域がなかなかに広大であることを知りました。見渡す限りというのも大仰だが、広い墓地です。大小の墓石が雑然として、なんとなく安達《あだち》ヶ原《はら》の一角へでも迷い込んだような気持がする。
 むろん神尾は、ここがどこで――何という寺であるかは知らない。
 しかし、常識で考えても、あれからの自分の足で、奥州の安達ヶ原まで走れるはずはないから、いずれ江戸府内、近郊の寺に相違あるまいが、それにしても墓地が広大だと思わざるを得ない。
 いずれにしても、この墓地を突切って、垣根の破れでも壊して、往還へ出てしまえばこっちのもの。この墓地の中で怪しまれてはつまらない。幸いなことには、やっぱり暗夜で、誰も神尾を怪しむために、深夜この墓地に待構えている人はない。神尾は広い墓地の中を縦横に歩いて、その出口を求めようとしたが、ありそうでなかなかない。
 墓地の中をグルグルめぐりしているうちに、はたとその行手に立ちふさがったものがありました。雲突くばかりの大入道が一つ。これにはギョッとして、思わずタジタジとなったが、改めてよく眼を定めて見直すと、これは巨大なる石の地蔵尊の坐像であったことを知って、いささか力抜けがしました。
 右の巨大なる石の地蔵尊が安坐しているその膝元には、まだ消えやらぬ香煙が盛んに立ちのぼり、供えられた線香の量が多いものだから、香火が紅々と燃え立つようになっている。
 神尾は、変なところへ来たものだという感じがしました。

         百十四

 神尾主膳は江戸に生れたけれど、江戸を知らない。知っているところは知り過ぎるほど知っているが、知らないところは田舎者《いなかもの》よりも知っていない。
 江戸の場末といっても、自分の足のつづく限りに於て、こんな荒涼なところがあろうとは思いがけなかった。夜だから、無論その荒涼にも割引をして見る必要はあるには相違ないが、それにしてもこれはヒドイ。
 だが、まだ石の大きな地蔵の像が、自分の上にのしかかった入道のように見えてならない。その荒涼たるに拘らず、大地蔵の膝元には、右の如く香煙が濛々《もうもう》として立ちのぼり、香が火を吐いて盛んなるところを見ると、宵の口まで人の参詣が続いていたに相違ない。
 いったいこれはどこの何というところだ。ただいま身を忍ばしていたのは法華寺だが、この墓地の区切りの散漫なところを以て見ると、あの一寺だけの墓地ではないらしい。こちらにも相当な寺の棟らしいのが見える。してみると共同墓地かな。両国の回向院《えこういん》ででもあるのかな。回向院ならば自分もよく知っている、どう見直しても回向院ではない。第一、回向院は寺とはいえ、もっと和気がある。回向院の墓地にはもっとよく手入れが届いている。回向院にはこんな醜怪な大坊主の石像などはないはず。また、自分の足にしてからが、いくら危急の際でありとはいえ、あれから回向院まで走り続けられるはずはないのだ。よし自分が走り続けられたとしても、周囲の人が許すはずはないのだ。根岸から三輪へかけて、自分の足であの咄嗟《とっさ》の間に走り得られる限りに於て、こんなグロテスクな土地の存在があり得ようとは、神尾はどうしても想像がつかない。一時は、まだ薪小屋の夢が醒めないのではないかと疑ってみました。
 思い返してみても実際は実際なのだ。そういう空想に耽《ふけ》るよりは、早くこの現実の場を脱出して、正当な帰途につかなければならぬ、それが急務だ、と主膳の目では、醜怪にも悪魔にも見える地蔵尊の前を過ぎて、ほんの少少ばかり進んだと思うと、
「あっ!」
と、またしてもこの男にも似気《にげ》なく、二の足、三の足を踏んで立ちすくんだかと見るほどに、たじろいで、やっと身を支え得たかのように突立ちました。おともの者があらば周章《あわ》てて、「どうあそばされました」と介抱するところでしょうが、ともはありません。そこで踏み止まった神尾主膳は、また凝然《ぎょうぜん》として闇の中を見ている。
 主膳の眼を注いだ方向へ線を引いて見ると、そこにまた恐るべき存在がある。地蔵の姿を悪魔の姿と見た神尾の眼には、これは正銘の悪魔だ、悪魔の戯《たわむ》れだ。悪魔の戯れにしても、これはあまり度が強過ぎる。
 人間の生首が四つ、ずらりと宙に浮いているのです。
 宙に浮くと言っても、幽霊として現われたのではない。足はないけれども、台はあるのです。三尺高いところの台があって、その上に人間の生首がズラリと並んで、驚く主膳を尻目にかけたり、白眼に見たりしてあざ笑っている。
「獄門だ!」
と主膳は我知らず叫び出すと共に、今までの疑問が発止《はっし》とばかり解けました。
「わかったぞ! これは小塚《こづか》ッ原《ぱら》だ」
 そうだ、ここは俗に千住の小塚ッ原、一名を骨《こつ》ヶ原《はら》という――仕置にかけて人間を殺すところなのだ。

         百十五

 ところは転じて飛騨《ひだ》の国、高山の町の北、小鳥峠の上。
「どうにも手のつけようがない」
 仏頂寺弥助と丸山勇仙の自殺した亡骸《なきがら》を前にして、泣くにも泣けなかった宇津木兵馬は、手のつけようも、足の置き場もない思いをして呆然《ぼうぜん》と立ちました。
 少し離れたところの、樅《もみ》の木蔭に隠れていた芸妓《げいしゃ》の福松は、兵馬が立戻って来ることの手間がかかり過ぎることに気を揉《も》み出し、
「相手が悪いから心配だわ」
 秋草の小鳥峠の十字路から、かなり離れたところの木立の蔭で、福松がひとり気を揉んでいるのは、なるほど相手が悪い。もし、先方で気取られてしまった日には、宇津木さんも袖が振りきれない。捉まってしまった日には、しつこくからみつかれてどうにもなるまい。
 宇津木さんという方は、お若いに似合わず、剣術の腕にかけては素晴らしいとの評判は、この高山で聞いているけれど、相手のあの仏頂寺という悪侍が、一筋縄や二筋縄のアクではない。
 宇津木さん、早く戻って来て下さればいい、こう思って芸妓の福松は、木蔭からちょっと首を出して、秋草の小鳥峠の十字路の方を見透そうとしたけれど、目が届きません。
 さりとて、へたに離れてこのわたしというものが、仏頂寺に見つけられでもしたら、それこそ最後――
 福松は、それを懸念《けねん》しながら木蔭を出たり離れたりして、兵馬の安否を気遣《きづか》いましたけれど、兵馬から音沙汰《おとさた》がなく、そうかといって、仏頂寺との間に、見つけた、見つけられた、という問題を起しているような形勢は少しもない。
 それだけに、福松はまたいっそう気を揉んで、隠れがの樅の木立の下を一尺離れて見たのが二尺となり、三尺となり、一間となり、二間となって見たが、なんらの動揺が起らないのです。
 とうとう我慢しきれなくなって、三間と、五間と、這《は》うようにして叢《くさむら》の中を廻って見ますと、秋草の中に立っている宇津木兵馬の姿をたしかに認めました。
 呆然として、ただ立ち尽しているのです。
 笠も、合羽もつけないで、黒い紋附に、旅装い甲斐甲斐しい宇津木兵馬の立ち姿が、秋草の乱れた中に立ち尽していることだけは、間違いなく認められたものですから、福松は我を忘れて呼びかけようとして躊躇しました。
 まだいけない。ああして、宇津木さんも、じっと様子を見て思案してらっしゃる。わたしがここで大きな声を出した日には、ブチこわしになるかも知れない。
 では、ここでもう少し、様子を見届けて……
 福松はこう思って、一心に叢の蔭から兵馬の立ち姿を見つめていると、兵馬はじっとただ地
前へ 次へ
全56ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング