落ちつかない」
「そりゃそのはずでございます――お絹様は遠大なる目的を以て、異人館に乗込んでいらっしゃる、その遠大なる目的の、遠大なる所以《ゆえん》に至っては、どなたよりも、こちらの殿様が御承知のはずでいらっしゃる、それをいまさら改まって、お絹はラシャメンになりきったのか、キシメンにのしきったのかというようなお尋ねは、いささか水臭いおたずねじゃないかと、びた[#「びた」に傍点]は心得ます」
「うむ――それはそんなものかも知れないがな」
と神尾は、強《し》いて癇癪をおしこらえるように、言葉を胸の中へ一ぺん送り返して、また言いました、
「そりゃ、そんなものかも知れないが、世間には木乃伊《ミイラ》取りの木乃伊というのがある」
「これはまた我々共を御信用ないこと夥《おびただ》しい、いささかな邪推、中傷……マダム・シルクに限って――それに参謀として目から鼻へ抜けるボーイの忠作君、また物の数ならねどかく申す鐚助」
「そいつらがみんな甘いものだ、なめたつもりで総なめに舐《な》められるなよ、毛唐《けとう》の方が役者が上だ、毛唐とはいえ、あいつらは海山を越えて、嫌われ抜いているこの国へやって来て仕事をしようという奴等だ、貴様たちの手に乗るような甘口ばかりじゃない、日本の国を覘《ねら》って来る奴等だ、貴様たちの一人や二人丸呑みにするのは、蛇が蚊を呑んだようなものだ。それを思うと、あの女をはじめ貴様たちをあいつらに近づけたのは、こっちの大きなぬかり[#「ぬかり」に傍点]だ、うっかり甘口に乗った神尾主膳ののろさ加減を、今つくづく考えていたところだ。毛唐を舐めてもの[#「もの」に傍点]にしてやろうと企んでいる奴等が、舐められている、貴様も舐められている、お絹なんぞは、頭から尻尾《しっぽ》まで舐められている――」
 こう言って、神尾主膳の三つの眼が勢いを加えて、また乱舞をはじめました。

         百二

「それが、いけやせん」
と鐚は扇子を斜《しゃ》に構え、
「すべて、敵をはかるは味方より、というのが軍法の極意でげして、従って敵を舐めんとすれば、まず味方を舐めさせて、甘いところをたっぷりと振舞って置くのが寸法でげす。いかにも仰せの通り、海山を越えて、この尊王攘夷《そんのうじょうい》の真只中へ乗込もうて代物《しろもの》でげすから、たとえ眼の色、毛の色が変りましょうとも、一筋縄の奴等じゃあがあせん、うっかりしていた日には、日本の国の甘い汁という汁はみんな吸われて持って行かれちゃいやす。現に近代に於ても、性《しょう》のいいところの日本の国の金銀を、どのくらいあの奴等に持って行かれたか、数えられたものじゃあがあせん――どうして、船にいたせ、機械にいたせ、あちらとこちらとでは段が違いやして、太刀打《たちう》ちができる相手じゃあがあせん。現に相州の生麦村《なまむぎむら》に於て、薩摩っぽうが無礼者! てんで、毛唐を二人か二人半斬ったはよろしいが、その代りに、みすみす四十四万両てえ血の出るような大金を、異国へ罰金として納め込まにゃなりやせん。長州の菜っぱ隊が、下関で毛唐の船とうち合いをして、日本の胆ッ玉を見せたなんぞとおっしゃりますが、その尻はどこへ廻って参りましょう、みんな徳川の政府が、このせち辛い政治向のお台所から、血の出るような罰金として、毛唐めに納めなきゃあならない次第でげす――そこへ行きますてえと、何といってもエライのは日本の絹と、ラシャメンでげすよ、日本の絹糸はどしどし毛唐に売りつけて、こっちへ逆にお金を吸い取って来る、それからラシャメンでげす、ラシャメンというと品が下って汚いような名でげすが、名を捨てて実を取る、というのがあの軍法でげしてな」
 金公は抜からぬ面《かお》で、いつもの持論をまくし立てる。
 今の日本人は、毛唐に対して、威張れば威張るほど損をする。威張っている上流の人間ほど、毛唐から借金をしたがったり、毛唐に罰金を取られたがっている。
 それに反して、日本の絹糸を売り込みさえすれば、毛唐は喜んで高金を出して買って行く。それがために、どのくらい日本へ金が落ちるか知れない。
 それと、もう一つは、この鐚助独特のラシャメン立国論で――こいつが臆面なく喋《しゃべ》り立てるラシャメン立国論というのは、つまり次のような論法である。
 露をだに厭《いと》ふ大和の女郎花《おみなへし》降るあめりかに袖は濡らさじ――なんてのは、ありゃ、のぼせ者が作った小説でげす。
 拙《せつ》が神奈川の神風楼《しんぷうろう》について実地に調べてみたところによると、その跡かたは空《くう》をつかむ如し、あれは何かためにするところのある奴がこしらえた小説でげす。
 事実は大和の女郎花の中にも、袖を濡らしたがっている奴がうんとある。毛唐の奴めも、女にかけては全く甘いもんで、たった一晩にしてからが、洋銀三枚がとこは出す。月ぎめということになるてえと、十両は安いところ、玉によっては二十両ぐらいはサラサラと出す。そこで、仮りに日本の娘が一万人だけラシャメンになったと積ってごろうじろ、月二十両ずつ稼《かせ》いで一年二百四十両の一万人として、年分二百四十万両というものが日本の国へ転がりこむ。これがお前さん、資本《もとで》要らずでげすから大したもんでげさあ。というような論法が、こいつのラシャメン立国論になっている。

         百三

「ねえ――殿様、さいぜんも槍のお話が出ましたことでげすが、昔はそれ、槍一本で一国一城の主ともなりました、お旗本の御先祖様なんぞは大方はそれでげす。ところが、当今になりましては、もはや槍一本で一国一城の主というような夢は、歴史が許しませんでげしてな」
 鐚《びた》公は、しゃあしゃあとして、高慢面に喋りつづける。
「その一国一城てのが、当今はみんな心細いものでしてな、お台所をうかがいますてえと、大大名といえども内実は、みんな大町人に頭が上らないんでげすからな、借金だらけでげすよ、勤王方も佐幕方も、台所方は似たりよったりでげす、表はお家柄の格式で威張っていても、蔭へ廻ると、大町人のお金の光にはかないません、みじめなもんでげすよ――将来は金でげすな、もう槍先の功名《こうみょう》の時代じゃあがあせん」
 そこで大きく金を儲《もう》けるためには、どうしても、いやな毛唐と取組まなければならない。毛唐と取組むには、女に限る――
 要するに一つの軍法だ。
 それともう一つ、いま築地の異人館へボーイに住込ませて置く忠作という小僧が、あれがまたなかなかのちゃっかり者で、ボーイに身をやつして、毛唐の趣味趣向から、その長所弱点をことごとく研究中である。そこで、マダム・シルクを先鋒として、忠作を中堅に、我々が後援で、異人館を濡手で乗取ってしまうのも間近いうち――まずそれまでは、しばしの御辛抱――というようなことを、鐚助が口に任せてベラベラとまくし立てるのは例の通りで、神尾といえども、こいつらの軽口にそのまま乗ってしまうほどの男ではないが、そういう話を聞かされるうちに、またまた癇癪《かんしゃく》が多少緩和されてきて、頭の中は雨時のように、曇ったり晴れたりするが、そのむしゃくしゃの原因がきれいに拭い去られたわけではない。
「鐚公、貴様の能書と講釈ばかりを、いい気になって聴いているおれではない――おれにはおれで野心があるのだ、いいか、今日はひとつ、いやが応でもそれを切出すから、貴様ひとつ手配をしてみろよ」
「もとより、殿の御馬前に討死を覚悟の鐚助めにござります」
「ほかではない、今時はラシャメンが流行《はや》る、なるほど、貴様の言う通り、ラシャメンで国を富ます方法もあるかも知れない、そんなことがいいの悪いのと、貴様を相手に討論するおれではない、ラシャメンをするような腐れ女に、金を出したい毛唐は出せ、ラシャメンになってまで金が欲しい女はなれ、おりゃ、かれこれと子《し》のたまわく[#「のたまわく」に傍点]は言わねえ――だが、毛唐めが日本の女を弄《もてあそ》んでみたいのも人情というやつなら、日本の男も毛唐の女をおもちゃにしてみてえというのも人情だろう――おれは万事、むしゃくしゃする胸の中を、相身互いとして納めてみたいんだ。いいか、おれも今まで、遊びという遊びはおおかたやったよ、人間のする道楽という道楽も、一通りや二通りはやってやり尽したが、まだ毛唐の女を相手にしてみたことはないんだ。いいかい、お絹という女は、おれの見る前で、いい気で毛唐をおもちゃにしていやがる、おれも、毛唐の女と遊んでみたいというのは無理かい。貴様ひとつ取持て――」
「えッ?」
「誰彼といおうより、築地の異人館のあの支配人てえやつの女房を、おれに取持て」
「えッ?」

         百四

「えッ」と金公は、主膳の一文句ごとに仰山らしくクギリをつける。神尾は物凄い顔をしてつづける。
「日本へ来ている毛唐の奴は、見ゆる限りの日本の女を択り取りだ、こっちの人間は毛唐の女に対してそうはいかぬ、相手にしたくとも、こっちへ来ている毛唐の女の数は知れている、択り好みするわけにはいかねえのだから、見たとこ勝負だ、一昨日《おととい》異人館で見た、あの支配人のかかあ[#「かかあ」に傍点]というのがよろしい、いいも悪いもない、あれに決めた、貴様、あの毛唐の女房とひとつ、水入らずで一杯飲めるように取持ちをしろ」
「これは奇抜でげす、ズバ抜けた御註文でげす、さすがの鐚《びた》公、すっかり毒気を抜かれやしてげす」
「どうだ、いやとは言えまい、こっちからお為ごかしにお絹を連れ出して、異人館へハメ込んで置くのを大目に見てやっている以上は、あっちから相当の奴を、こっちへ廻させる、それが交易《こうえき》というものだ――交易の講釈は貴様がお師匠で、飽きるほど聞かされている、いやとは言えまい」
「いやどうも、敵すべからずでげす、何とあいさつを致していいか、鐚助、このところ返答に窮す」
「窮することはない」
「弱りましたな」
「弱ることはない」
「とにかく――その、殿様、殿様のおっしゃるところにも、そりゃ一理あるにはありますが、どうもはや……とにかく、女房はいけませんよ、主ある女はいけません、何でしたら、そのうちいいのを物色いたしまして、殿様のお望みを叶えることに致しやしょう、そう短兵急におっしゃられては困ります」
「逃げ口上は許さぬ、おれがいったん口に出した以上は、横にでも、縦にでも、車を押切るのだ」
「でも、人の女房はいけません、主ある女はいけません――ほかに」
「なぜ、いけない」
「なぜとおっしゃりましても、売り物買い物なら、それは差支えございません、素人《しろうと》でございましても、色の恋のというまでもなく、得心ずくでしたら、そりゃ横恋慕《よこれんぼ》もかなうことがございましょう、毛唐とはいえ、れっきとした商館の女房を取持て――こりゃ御無理でござんしょう」
「無理でない」
「無理でないとおっしゃるのが、無理の証拠でござんしょう」
「無理でない――なるほど、こっちの倫理道徳から言えば無理かも知れないが、毛唐の奴には無理でない」
「毛唐と申しましても、人間の道に二つはございますまい」
「ある、二つも三つもある、毛唐は即ち外道《げどう》なんだ、聞け、鐚公、こっちでは、娘のうちももとより、女の貞操というものを重んずるが、女房になってからは絶対的だ、娘のうちは多少ふしだらをしても、どうやら女房に納まった後は不義をしない、また売女遊女の上りでも、人の女房となれば、日本の女は貞操を守るというのが習わしだ、ところが、毛唐の女は違う、娘のうちは存外品行が正しいが、女房になってからかえって貞操を解放する習わしだと聞いている、もちろん、みんながみんなそうではあるまいが、毛唐の方では、比較的自由であると聞いている、だから、人の女房でも、存外たやすくもの[#「もの」に傍点]になると聞いている――おれが知っているそのくらいの風俗を、貴様が知らないはずはあるまい、どうだ、真剣に返事をしろ」
 主膳の三ツ眼が青い炎を吹いている。

         百五

 金助
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