、悪く睨まれてもつまりやせんからねえ――だが、時勢が、どうも、だんだん大弐様のおっしゃる通りになって行くようなあんばいで、近頃はああやって、徳大寺様のようなお身分の方までが、わざわざお墓詣りに来て下さる――この土地の村々でも、大弐様の書き残した本などを読むものが殖えてきましたよ」
九十八
神尾主膳は、根岸の控屋敷の居間で、顎《あご》をおさえながら、机によりかかって、二日酔いの面《かお》をうつらうつらとさせている。
今日は、好きな字を書いてみる気もなく、例の筆のすさみの思い出日記の筆をとるのもものういと見えて、起きて面を洗ったばかりで、朝餉《あさげ》の膳にも向おうとしないで、こうしてぼんやりと、うつらうつらして机にもたれているところです。
ぼんやりと、うつらうつらして、やや長いこと気抜けの体《てい》でありましたが、そのうちに、さっと二日酔いの面に、興奮の色がちらついたかと見ると、三つの眼が、くるくるっと炎のように舞い出してきました。
神尾主膳には三つの眼があること――これは申すまでもなく、染井の化物屋敷にいた時分に、弁信法師のために授けられた刻印なのです。額の真中を、井戸のはね釣瓶《つるべ》で牡丹餅大《ぼたもちだい》にばっくりと食って取られたそのあとが、相当に癒着しているとはいえ、塗り隠すことも、埋め込むこともできない――親の産み成した両眼のほかに、縦に一つの眼が出来ている。
これが出来て以来、人目にこの面をさらすことができない。いや、それ以前から人前では廃《すた》った面になって、これで内外共に、人外《にんがい》の極《きわ》めつきにされてしまった。
この面を人に会わすことは避けているが、子供は正直だから言う、
「三《み》ツ目《め》錐《ぎり》の殿様」
神尾主膳は興奮のうちにも、三ツ目錐を急所へキリキリと押揉むような、何かしらの痛快を感じたと見えて、額の三眼が、クルクルと炎のように舞い出したのです。
こうなった時は、触るるものみな砕くよりほかはない。傍《かた》えにあればあるものを取って抑えて、むちゃくちゃにその興奮のるつぼ[#「るつぼ」に傍点]へ投げ込むよりほかはない。
お絹という女がいれば、こういう興奮を、忽《たちま》ち取って抑えてぐんにゃりさせてしまう。三ツ目錐の炎を消すには、頽廃《たいはい》しかけたお絹という女の乳白色の手で抑えると、主膳はたあいもなく納まる。そうでなければ酒だ。傍えに酒があれば手当り次第にあおることによって、この興奮を転換させる。転換ということは解消ではない。一時、その興奮を酒に転換させて、方向だけをごまかしてみるだけのもので、酒をあおるほどに、興奮がやがて捲土重来《けんどじゅうらい》して、級数的にかさ[#「かさ」に傍点]にかかって来るのは眼に見えるようなもので、そこで例の兇暴無比なる酒乱というやつが暴れ出して来て、颱風以上の暴威を逞《たくま》しうする。
今日は、この場にお絹がいない――酒がない。
お絹は異人館へ泊り込んでいる。
酒類は一切隠されている。使を走らせても、近いところの酒屋では融通が利《き》かないことになっている。主膳は立って荒々しく押入や戸棚をあけて見たけれども、この興奮に応ずる何ものもない。
そこでまた、机の前に坐り直したけれども、どん底からこみ[#「こみ」に傍点]上げて来る本能力をどうすることもできない。三ツの眼が烈しい渇きを訴えて、乳を呑みたがる、真白い乳を呑みたがる。咽喉《のど》の方は咽喉の方で鳴り出して、酒を求めて怒号しているのに、眼は乳を呑みたがっている。
当るを幸い――主膳は机の上の硯《すずり》をとって、発止《はっし》と唐紙《からかみ》へ向って投げつけました。硯の中には宿墨《しゅくぼく》がまだ残っていた――唐紙と、畳に、淋漓《りんり》として墨痕《ぼっこん》が飛ぶ。
九十九
「いや、これは驚きやした、これはまことにおそれやす――屋鳴震動《やなりしんどう》」
と変な声を出して、いま神尾主膳が硯《すずり》を投げ飛ばしたその間から、抜からぬ面《かお》を突き出したのは、例によって、のだいこのような鐚助《びたすけ》(本名金助)という男で、こいつが今日はまた一段と気取って、縮緬《ちりめん》のしきせ羽織をゾロリと肩すべりに着込んで、神尾の居間へぬっぺりと面を突き出したものです。
「鐚助か」
「殿様、いったい何とあそばしたのでげす、我々共がちょっと目をはなしますてえと、これだからおそれやす」
「鐚助、いいところへ来た、今日は朝からむしゃくしゃしてたまらないところだ、面《つら》をだせ、もっとこっちへ面をだせ」
と神尾主膳が、やけに言いますと、金助改め鐚助が、
「この面でげすか、この面が御入用とあれば……」
「そうだ、そうだ、その面をもっと近く、ここへ出せ」
「いけやせん、もともと金公の面なんて面は、出し惜みをするような面じゃがあせんが、それだと申して、殿様のその御権幕の前へ出した日にゃたまりません」
「出さないか」
「出しませんよ、決して出しません、いい気になってつん出した途端を、ぽかり! 鐚助、貴様のは千枚張りだから、このくらい食わしても痛みは感じまい、どうだ、少しはこたえるか、なんぞと来た日にはたまりませんからな。こう見えても、面も身のうちでげす」
「どうだ、びた[#「びた」に傍点]助、今日は十両やるから、その面をひとつ、思いきりひっぱたかせてくれないか」
「せっかくだが、お断わり申してえ、これで、お絹さまあたりから、びた[#「びた」に傍点]公や、お前のその頬っぺたをちょっとお貸し、わたしにひとつぶたせておくれでないか、気がむしゃくしゃしてたまらないから、ひとつわたしにぶたせておくれ、てなことをおっしゃられると、ようがすとも、鐚公の面でお宜しかったら、幾つなとおぶちなさい、右が打ちようござんすか、それとも左がお恰好《かっこう》でげすかと、こうして持寄って、たあんとおぶたせ申しても悪くがあせんがねえ、殿様の腕っぷしでやられた日にはたまりませんや、これでも鐚助にとっては、かけがえのねえたった一つの親譲りの面なんでげすからなあ」
「ふん――ちゃち[#「ちゃち」に傍点]な面だなあ、陣幕や小野川の腕でぶたれたんなら知らぬこと、この尾羽《おば》打枯らした神尾の痩腕《やせうで》が、そんなにこたえるかい、一つぶたせりゃ十両になるんだ、この神尾の痩腕で……」
「どういたしまして、殿様のなんぞは、そりゃどちらかと申せばきゃしゃなお手なんでげすが、何に致せ、もとは鍛えたお手練でいらっしゃる、手練がおありなさるから、たまりませんや」
「は、は、は、わしはあんまり武芸の手練はないぞ、若い時、もう少し手練をして置いたらと思われるが、つい、酒と女の方に手練が廻り過ぎてしまった」
「いや、どういたしまして、何とおっしゃっても、お家柄でございます、殿様のお槍のお手筋などは、御幼少から抜群と、鐚助|夙《つと》に承っておりまするでげす」
意外にも神尾は、こののだいこ[#「のだいこ」に傍点]から自分の武芸を推称されたので、少しあまずっぱい心持がしてきました。
百
なるほど、おれは旗本としては、やくざ旗本の標本みたようなものだ。武士としては、箸にも棒にもかからぬのらくら武士だ。
だから、その点に於ては、微塵、人も許さず、自分も許してはいない。武術鍛錬のことなどが、おくびにも周囲の話題に上ったことはないのだが、只今、偶然にも、このおっちょこちょいの口から、武芸のことが飛び出して来た。
それを主膳は小耳にひっかけて、奇妙な気になった途端から、昂奮が少しずつ醒《さ》めてきました。
その気色が緩和された様子を見ると、人の鼻息を見ることに妙を得たびた[#「びた」に傍点]助は、するすると神尾の間近く進んで来ました。もう打たれる心配も、叩かれるおそれもないと見て取ったのでしょう。果して御機嫌の納まりかけた神尾は、対話になってから、自分ながら事珍しいように、びた[#「びた」に傍点]助に向ってこんなことを言いかけました――
「なるほど――びた[#「びた」に傍点]公、貴様に今おだてられて、おれは変な気になったのだがな」
「変な気などにおなりになってはいけやせん、その変な気になりなさるのが、殿様の玉に瑕《きず》なんでげす」
「変な気だといって、どんなに変なんだか貴様にわかるか」
「変な気は変な気でげすよ、変った気色《きしょく》でげすな、いわば正しからざる気分でげしょう、正は変ならず、変は正ならず、変は通ずるの道なり、君子の正道じゃあがあせん」
「くだらないことを言うな、今おれが言った変な気というのは、貴様にいま言われて、なるほどそうだと気がついたのは、おれの家も旗本では武芸鍛錬の家で、おれも子供の時分から相当武芸を仕込まれていたことだよ、ことに槍に於ては、手筋がよくて、師匠からも見込まれたものなんだ、それを貴様、どこで聞いて来た」
「でげしたか。さような真剣な御質問でげすと、鐚助も恐縮――どこで聞いたとおたずねになりましても、よそほかから伺うところもございません、お絹様から伺いやした」
「そうか、あの女は、おれの子供時分からのことを知っている、知らないにしても、人から聞いているだろう」
「まずその如くでげす、大殿様が、あれでなかなか武芸のお仕込みはやかましくていらっしゃったものでげすから、幼少の折より若様へは、みっちり武芸をお仕込みの思召《おぼしめ》しで、ずいぶん厳しかったものなんだそうでございます」
「その通りだ、子供の時分から、いい師匠についてやらせられたのだ、だが、仕込まれた武芸の稽古より、仕込まれない外道《げどう》の稽古の方が面白くなってしまったのが、この身の破滅だよ」
「につきまして、憎いのは、あのお絹様て御しんぞ[#「しんぞ」に傍点]なんでげす」
「どうして」
「憎いじゃがあせんか、肉を食っても足りねえというのが、あの御しんぞ[#「しんぞ」に傍点]なんでげす、憎い女でげす」
「どうして、お絹がそんなに憎い」
「先殿様に、それほど御寵愛《ごちょうあい》を受けておりながら、その若様を、そんなにまで破滅に導いた、その有力な指導者は、つまり、あのお絹様じゃあがあせんか」
「いや、そういうわけでもないよ、あいつだけが悪いのじゃない――」
と言ったが、神尾主膳はここでまた、むらむらと浮かぬ気になりました。
「鐚《びた》!」
本名の金助を、神尾は「金」では分に過ぎるからと言って、鐚と呼んでいる。そう呼ばれて、こいつがまた納まっている――
百一
いったん緩和しかけた神尾主膳の癇癪《かんしゃく》が、その時にまたむらむらっときざ[#「きざ」に傍点]して来たのは、お絹という名を呼ばれたその瞬間からはじまったらしいのです。
そんなことにお気のつかない金公は、いい気になって、
「全く以てあのマダム・シルクときた日には、いつ、どこへお年をお取りなさるんだかわかりません、たまらないものでげす、ぶち殺してやりたいようなもんでげす」
と、ベラベラ附け加えてしゃべってしまったので、神尾の三つの目がまたも炎を出しながら、クルクルと廻転しました。
「びた[#「びた」に傍点]公!」
と言った神尾の権幕の変っているのに思わずゾッとした鐚助は、それでも、これは食べつけている例の病気だなと、甘く見ることをも心得ているものですから、さあらぬ体《てい》で、それをあやなすつもりで、
「何事でげすかな」
「あの絹という女は、ありゃ、今では真実ラシャメンになりきっているのか」
「いや、これはこれは、事改まって異様なるおんのうせ」
扇子でピタリと自分の頭を叩いて言いました。
「お絹様――ペロに翻訳をいたしましてマダム・シルク――あの方が、真実正銘のラシャメンになりきったかとの御尋ね、これはほかならぬお殿様のおんのうせとしては甚《はなは》だ水臭い」
「野《の》だわ言《ごと》を申さず、はっきりと白状しろ、あの女は、このごろは異人館へ入りびたりだ、ちっともここへは
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