―というのだから、物凄い形相であって、であうほどのものが倒れ死んだというのも無理はない。
 それ以後、藁の人形を加えたのは、いつの時代に起ったか知らないが、この丑の刻まいりの行者は、女に限ったものである。嫉妬が女の専売物である限り、藁の人形と、五寸釘と、丑の刻まいりを、男はやらないことになっている。
 ここでも、最初からの女人が、藁人形を型の如く釘づけにして、そうして意気揚々として松の木の頂《いただき》から降りてまいりました。ただ、藁の人形をこうしてリンチに行って来たことだけに於て、もうこの女は相当に、復讐と勝利の快感に酔っているらしい。
 頭の鉄輪にのせた蝋燭《ろうそく》を消すことはまだ忘れている。そのままで木の幹の下に彳《たたず》んで木の上を見上げたが、その女は色の白いいい女でした。その女が嫉妬と報復と、虐殺と勝利とに酔うた面《かお》を、蝋燭の火にかがやかして、深夜の樹上を見上げるのだから、相当凄いものになっていなければならぬ。さてまた、それに程近いところに捨てられた幼な児は、この時、また何に興を催してか、急に機嫌が直ってゲラゲラ笑い出しました。
 さきほどは、星を数え、ちんくるちんくると微笑《ほほえ》みをしていたのですが、この時はゲラゲラと笑い出しました。星は人の微笑を誘うかもしれないが、ゲラゲラ笑いをもたらすことはない。子供が急にゲラゲラ笑いをやり出したのは、疳《かん》のせいで、笑神経の箍《たが》がゆるんだのか、そうでなければ、対象物が変ったのだ。
 なるほど、この幼な児の眼のつけどころが違っている。さきほどは天空を仰いで星のまたたきを見ていたには相違ないが、今は別に――凄い女の頭の上にのせた鉄輪の上で燃えさかっている蝋燭の火を見て、この子はゲラゲラと笑い出したのでした。
 幼な児からゲラゲラ笑われて凄い女は急にひとみを返して、子供のいる方を見ました。
 この時はじめて、世にも親にも棄てられた人間の子が一人、宇宙間の夜に置き放されていることを認識したかのように――
 そこで、女もずかずかとこの籠の傍に寄って来ると、傍へ寄るほどこのおさな児が喜びました。というのは、その歓笑の目的物たる頭上の火が、いよいよ近くなったからです。
「まあ、赤ん坊が捨てられて――」
 女がすべての昂奮から、しばしさめて現実の世界を見せられた時、幼な児は、いよいよ超現実の人となって、
「のうのう」
と手をさしのべたのは、その頭上の火が欲しいからでしょう。
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名月を取ってくれろと泣く児|哉《かな》
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 そこで女が、はじめて自己頭上の火がまだ消されていないことに気がつきました。

         五十九

 火を求むる幼な児の要求を、無下《むげ》に荒々しく斥《しりぞ》けた女は、いきなり頭上の鉄輪を外《はず》し、あわてて蝋燭の火をかき消してしまいました。
 これは木の上で消して来なければならない火であったのだ――昔の例はとにかく、今の世では、これをつけて街上を走ることは自己の存在を示すことであって、祈りの秘密のためには取らない。
 そう思って急に消しとめたのだが、目的のおもちゃを急に奪われた幼な児は、非常な失望で、急にゲラゲラ笑いが号泣と変ってしまいました。
 途端に、天空で星が一つ飛びました。同時に下界で、さっと風の走る音がしました。急に天地の動きを感じたかのように、女は四方《あたり》を見廻して、ゾッと身の毛をよだてたのです。ここで自分が身の毛をよだてるというのはおかしい、己《おの》れの姿を認めしめて、他をして身の毛をよだてしむるならばわかっているが、鬼それ自身がおののいたのでは問題にならないではないか。
 子供は盛んに泣いています。
 何と思ったか鬼女は、水屋の方へ向って一散に走りかけました。走ったのではない、飛びかかったような勢いでした。水屋というのは、前に出て来た鼓楼とは反対の側にあるのですが、鬼女――鬼女といっても、この際、急速に角が生え出したわけではなく、最初からの呪いの女をかく呼び換えてみただけのものです――はその水屋に向って突進したのですが、何につまずいたか、何に蹴られたか、そこにドウとばかりに仰向けにひっくり返ってしまいました。
「あ、あ、あ、あ」
 そのまた起き上る前を、後ろの物蔭から長い手が一つ出て、鬼の頸《くび》を後ろから羽掻締《はがいじ》めにして、そのままスルスルと「玄関の松」の後ろへ引込みました。
「あ、あ、あ」
と女は、なされるがままにして逆らうの力がない。怖ろしいものです、上には上があるものです、大通寺の境内《けいだい》には鬼を取って食う怪物がいる。
 今やまさに、この玄関の松の裏の見えないところで、怪物の手に引きずられて、鬼女は骨まで食われている。
「あ、あ、あ」
 それ以上の音は語を成さない。
 頭からか、尻尾からか、それは知らないが、ボリボリと食われているのだ。
「ひーひーひー」
 あ、あ、あ、というのが、ひー、ひー、ひーと聞える。
 必死に悶《もだ》えている。必死に反抗している。しかし、それは何でもない、蛙も蛇に呑まれる前には相当反抗する。ただ絶叫と悲鳴との限りを尽して抵抗するのと、声をあげる機関を妨げられての上で暴行を加えられるのとの相違があるまでで、その極力必死の抵抗だけは同じことなのですが、
「く、くるしい! うーん」
 やっと、これだけの声が女の口から出ました。あとは烈しいうめきです。
 抉《えぐ》られている――それは胸か、腹か、腸《はらわた》か知らないが、両刃《もろは》の剣をもって抉られた瞬間でなければ出ない声だと思われる、大地を動かす呻《うめ》きでした。
「く!」
 断末魔の身動きをするらしい。
 ずっと昔のこと、甲州の八幡村で、新作さんという若衆《わかいしゅ》の許婚《いいなずけ》の娘が、水車小屋から帰る時、かような苦叫をあげたことがある――最近には……

         六十

「玄関の松」の裏で、女の虫の息が糸を引いて全く微かに消え去った時分に、例のおさな児の傍に、全く別の人影がありました。あくまでおとなしい児はおとなしい児で、あのとき泣き出したが、ここでまた泣きやんでいました。
 その籠の傍に、今度は全く別な人影が一つ立っている。それは、以前の白衣の女とは似ても似つかぬ、黒衣覆面にして、両刀を帯び、病めるものの如き痩身《そうしん》の姿でありました。
 こうなってみると、この覆面の姿も、断じてお花さん狐の変化《メーキャップ》の一つではない。深夜に餌食《えじき》をあさる鬼の一種には相違ない。
 しかし、鬼だの、変化《へんげ》だのといっても、今時は相当に気が利《き》いていなければならぬ。俗に気の利いたお化けの引込む時分という諺《ことわざ》がある。引込みの大事なのは、花道の弁慶と、内閣の更迭《こうてつ》のみではない。人間の世には戸籍のない化け物でさえも、引込みの時間が肝腎である。さいぜんの物凄い鬼女なども、いわば引込みの時を失ったばっかりに、食うべきものがうまうまと食われてしまった?
 引込みを上手につけるということは、一面に於て自己の分を知るということであります。引込みのつかないということはおよそ醜態の極でありますが、分を知ることの聡明な人に限って、この醜態から手際よく免れる。
 そこで、夜は悪魔の領土であり、昼は人間の時間である。
 悪魔にも生存の権利がありとすれば、それは夜間に限ってのみ、食を漁るの時間を与えられる。
 そこで気の利いたお化けは――お化けというものを仮りに悪魔の親類とみなして――己《おの》れの領土と時間のあまり切迫しない間に、手際よく後方機動の実をあげなければならない。
 この場では、一つの悪魔は木の上で藁《わら》の人形を虐殺して、その残忍性と復讐性とを満喫したけれど、引込みが甚だまずかったために、次に現われた悪魔のために食われてしまった。さてその次に現われた悪魔といえども、悪魔である限り、その領分の分界を知らなければなるまい。
 そうこうしているうちに、東の方が白んできて、そこで旗を巻くのではもう遅い。
 果してそこへ第三の悪魔が現われました。第三の悪魔が、第三の食物を求むるために現われました。
 第三の悪魔というのは何ものにして、その求むるところの食というのは何物ぞ?
 あらかじめここに一応、時と食との解釈をして置かなければならぬ。
 仏教に於ては、正午前だけが時であって、午後は時に非《あら》ず。持戒の僧は午時に於てだけに食事をする。午時を過ぎては「過中不飲漿」である。もし正午十二時を過ぎての非時に於て食事を許さば、貪心《たんしん》たちまち生じて善法を修《しゅ》するを妨ぐる――仏は仏慧菩薩《ぶってぼさつ》のために四食《しじき》の時を説いて、朝の天食、午時の法食とし、そうして畜生のための午後食、鬼類のための夜食――とこうなっている。
 そこで、夜は鬼が出て存分に夜食を貪《むさぼ》るという段取りになる。鬼はすなわち悪魔のうちの面利《かおきき》である。
 そこで、今や第三の悪魔が、第三の夜食を求めに来た。その現物は何物ぞというに、それは餓えたる犬でありました。
 犬というものは、通常、善良なる畜類であって、決して悪魔の眷族《けんぞく》とはいえないが、ただその餓えたる時のみは正真の悪魔です。

         六十一

 食に飽かしむれば、善良なる有用動物であり、食に餓《う》やせば、怖るべき悪魔であることの可能性は、犬にのみ限ったものではありません。陳斉《ちんせい》の野にいる人でない限り、おおかたの人は餓えしむれば、相当の悪魔となり得る可能性を持っている。いわんや、いかに善良なりとはいえ、畜類である犬に於てをや。この場へのそりのそりと二頭の犬が現われましたけれども、その二頭ともに餓えておりました。
 餓えているのは、これを保護する人がないからです――これに食物の保証を与える者がないからです。つまり良家の飼犬でなくして、喪家《そうか》の野良犬であったからです。二つの野良犬が餓えて食を求めに来ました。生きている者は本能的に生存権を要求する。自己の生存権が不安である限り、他の生存権をも脅《おびやか》そうとする。
 のそりのそりと飢えたる二つの犬が、前後してこの場へ侵入して来たと見ると、それから五六間おいて、またのそりのそりと二つの犬が前後して現われて来ました。それを見送っていると、次にまたのそりのそりと二頭、三頭――野良犬が前後して、鼻を鳴らしながら、飢えた足どりよろよろとして、同じ方向に向って繰込んで来るのです。
 これがために、松の根方に突立っていた第二の悪魔が、引込みがつかなくなりました。
 江戸時代の御府内に於ての道路の難物は、犬と、生酔いとでありました。その当時は犬に税金がなく、鑑札がなく、また犬殺し家業がありませんでしたから、たとえ五代将軍が保護は加えないにしても、繁殖は盛んでありました。だから、犬は善良なる交通人のための大なる恐怖でありました。白昼に於て然《しか》り、夜に於てなおさらに。
 自分の行手から、餓えたる犬が群がって来たのでは、これを邀《むか》えては事面倒だし、うっかり後ろを見せればつけ入られる。相手が悪い――とでも思ったのでしょう。第二の悪魔、すなわち覆面の姿は、内心苦笑をしながら松の木の下に立ち尽して、けがらわしい相手をそらしてしまおうとでも思案したのか、そのまま動かない。
 不思議なことには、こうして、この覆面が針のように立ちつくしてしまっていると、呼吸が騒がないし、有るかなきかを超越した存在となるのである。そうでなければ、犬はきっとその影だけを見て吠えるに相違ない。善良なる犬に於てもそうです、まして餓えたる犬に於てをや。
 犬が吠えないのは、人の存在を認めないからです。人の存在を認めないのは、人の呼吸を気取《けど》らないからです。松の前に立っている黒衣覆面の人は、見ようによっては松の幹の中に吸い込まれてしまっている人のように、取りようによっては、松遁《しょうとん》の術をでも使い出して、しばし
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