に傍点]と泣き立てました。それから暫く声を引いて泣きつづけたのですが、いつかまたまた、おとなしくなって泣きやみました。泣きやんだかと思うと、また糸を引くように咽び出しました。しかし、これがかえって、聞く人の腸《はらわた》を断つものがありました。聞く人がないからいいけれど――いいか悪いか知れないけれど、こういう場合に於ては、火のように泣き立てられることの方が、かえってこれほどにいじ[#「いじ」に傍点]らしくない。
泣きやみ、泣きつづけて、そう長くは繰返されないで、やがて連続的の泣き声となりました。天地の間《かん》に親を求むる声です。それが人の腸を掻《か》きむしらなければ、世に人の腸を掻きむしる声はない。
かくて、「玄関の松」の大木の下は、棄てられた児の天地に向って号泣の場所となりました。
五十五
一口に、ここで「玄関の松」と言ってしまっているけれども、この大通寺の玄関の松もまた、歴史ある玄関の松で、普通の寺院の庫裡《くり》の前の車廻しや風よけと見ては違う。これも一世の英雄、羽柴秀吉の長浜城の中にあって、秀吉がこの松の木に鎧《よろい》をかけたというところから「鎧かけの松」と名をつけられていたし、厳如上人《げんにょしょうにん》はまたこの松をなつかしがって、「昔の友」と呼んだくらいですから、なみなみならぬ由緒《ゆいしょ》を持っている。前の大手門を、台所門として移したと同時に、この松もここへ移し植えられている。高さ五丈五寸、枝張五十三間を数えられる玄関の松なのです。
大通寺の境内は広く、規模は大きく、その中に本堂があり、表門があり、裏門があり、庫裡があり、書院があり、経蔵があり、鐘楼があり、鼓楼があり、盥漱所《かんそうじょ》があり、香部屋《こうべや》があり、蘭亭があり、枕流亭《ちんりゅうてい》があり、新御殿があり、土蔵があり、示談講があり、総会所があり、女人講があり、茶所があり、白砂会所《しらすなかいしょ》、二十八日講、因講《ちなみこう》までを数えると、ちょっと一息には言えない建物があるのですから、その一角で、この深夜、ひとり捨てられた人の子が、全力を尽して号泣していたところで、いずれの隅まで反応して人の眠りを驚かすか、甚《はなは》だ怪しいものであります。ことに、この捨てられた子が、因果におとなしい子でありまして、一旦は咽び泣いたり、また号泣したりしましたけれども、暫くすると、ひとりまたいい機嫌になって笑い出しました。大空にちんくるちんくるとまたたく星の光を見て――人間が笑い得るには、幼な児といえども相当の余裕を持っていなければ笑えない。相当の余裕とは要するに衣食の余裕です。
今、ここに棄てられた子は、衣に於て充分の凌《しの》ぎをもっている。時季によっては、いかに衣服が足りても、深夜こうして夜風に曝されることに堪え得るはずはないのですが、今は何といってもまだ秋です、衣は寒を防ぐに足り、食は――棄てられる前に、たっぷりと因果が含ませてあるに相違ない上に、傍にまた徳利へ乳首をつけて、その時分はミルクはなかったとして、摺粉《すりこ》か、上※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉《じょうしんこ》か、そんなものを甘くして、優に一昼夜の吸引に堪え得るようにしてある。だからこの棄子《すてご》は衣食が充分に足りて、そうして笑うの余裕を得ている。
だが、こういう人生のきわどい笑いがいつまで続く?
棄てられた子の泣くのは悲惨だけれども、笑うのはなお一層の悲惨です。慈善の人があって、手に取上げるまで泣かして置くのはよろしいとして、それまで笑わせて置くことは、むしろ堪え難いことです。
但し一人の子供が泣こうとも、笑おうとも、天地人間《てんちじんかん》の静かなことは一層静かで、これも豊太閤の豪邁《ごうまい》なる規模をそのまま残すところの、桁行《けたゆき》十七間、梁行《はりゆき》十四間半の大本堂の屋の棟が、三寸低く沈む時分になると、鼓楼の下から、白衣のものがちょろちょろと走り出して来ました。
さいぜん台所門で見たのは、暗夜に黒衣の覆面――これは夜目にもしるき白衣の、しかも以前の姿よりもいくぶん背が低い。さてはお花さん狐がまた変装の趣向をかえたかな。女です――以前のは落し差しでしたが、今度のはまさしく女姿です。してみればやはり、霊怪でも、変化でもない。いったん捨てた子の笑うのに堪えられなくなって、母なる人がまた抱き戻しに来たのだ、人の母としてまさにそうなければならぬ。
五十六
子を棄てる藪《やぶ》はあるけれども、身を捨てる藪はないと見たのは、母と、子と、聖霊との、三位一体《さんみいったい》を知らない者のいうこと。
俗説にも、子を捨てた親は、必ずその子が、たれ人かの手によって完全に拾い上げられるまで物蔭に隠れていて、見届けて帰るのを習いとする、とある。
ここ、大通寺の玄関の松の下に、一旦わが子を捨ててみはしたけれども、時あって誰も拾いに来る人がない。
母なる人は、鼓楼の蔭あたりで、一刻も早く温かなる手の拾い主を期待していたのだが、容易に人の視聴を聳《そばだ》てないことほど、この棄てられた子がおとなしい子でありました。
むしろ、火のつくほど泣き叫んでくれたならば――遥《はる》か彼方《かなた》を通る夜廻りの者か、寺の庫裡《くり》の料理番か何人《なんぴと》か、夢を醒《さま》す人もあろうのに、いい機嫌で笑い出されてしまったのでは、とりつく島がない。
もう、たまりかねて、母親が自分の手で回収に出かけたものです。ただ、その母親が子を捨てるほどの母の姿としてはいささか異様に見えないではありません。白衣ははじめからわかっているが、近づくに従って熟視すると、髪はうしろへ下げ髪に、その上へ鉄輪《かなわ》を立てて、三本の蝋燭《ろうそく》が燃えている。足は跣足《はだし》です。それから首に鏡のようなものをかけている。
右の女が、ちょこちょこと鼓楼の下から小走りして、玄関の松の下まで来ましたが、思い余って、いきなり、わが子を入れた籠に飛びつくかと思うと、存外、冷静でありました。
その冷静ぶりは、むしろ、捨てたわが子の籠を目的としないで、そそり立つ松の大木の幹へでも抱きついてみたいというような気分で走りかかったことも、不思議の一つでしたが、籠の直ぐ一歩前、ちょうど松の大木の幹の下へ来てみると、そこで、いきなりわが子へ飛びつきもしないし、頬ずりもしないで、何か事の不思議そうに、突立ったままで、ずっと闇を透かして、この幼な児の人生の笑いを見つめていました。
こんな緩慢な挙動は、断じて人の親の挙動ではない。
第三者が偶然に、何か驚訝《きょうが》すべき事件を路傍に認めて、ふと足を止めた挙動に過ぎない。わざと芝居をして見せるのでない限り、母たるものがこんな思わせぶりを、この際わが子に向って為すべきはずがない。
そんなことには頓着なく、この子はほほ笑みをつづけておりました。
他目《よそめ》には、母親でなければならぬと想像されるところの女の人を傍らに置きながら、母よと呼ぶのでもなければ、乳をとせがむのでもない。相変らず天空の爛々《らんらん》たる星を仰いで、ひとり笑いに笑っている。
二つながら何という水臭い親子か――血を引いたものならば、髑髏《どくろ》へでも血が染まるというのに、ここで当面相対しながら、親であると見るべき女は、路傍の人の如く闇中にわが子を見、子であると見るべき一方は、それを見向きもせずに天空に向って笑っている。
母としては奇怪千万の母ではないか、子としても無情冷酷なる子ではないか。
しかも、奇怪と、無情とは、これに留まりませんでした。
星を見て、冷やかに笑うみどり児をよそにして、この母親と見ゆる奇怪なる女性は、他の物をがっちり[#「がっちり」に傍点]と抱き締めました。
五十七
右の奇怪な女人が抱き締めた他のものというのは、おさな児の揺籠《ゆりかご》ではなくて、玄関の松の大木でありました。
その大木にしがみついたかと見ると、なお驚くべきことには、女だてらに力を極めて、その幹から枝へ上り出したことです。
してみると、この女が、人の親でなかったことは明らかであります。人の親でないとすれば、狂人というよりほかはないでしょう。でなければ、例によって、お花さん狐の化けっぷりの一つかも知れないが、それにしてもバツが違い過ぎる。
狐もお花さん程度になると、こんなにまで狂人的にあがいて興をやる必要はないに相違ない。してみれば、やっぱり人間だ、人間の狂えるものの仕業《しわざ》だ。
この狂える白衣の女人は、昔の「友の松」の大木の幹にかじりつきながら、ついに、ほとんど頂上に近いところまで上りつめてしまうと、そこで、とある一つの枝に腰を卸して、身体《からだ》の調子を取りながら、手を懐中へさし入れると、取り出したところのものは別のものではない、身の丈五寸ほどの、藁《わら》でこしらえた人間の形であります。
ははあ、これで万事が読めた。この女が温かい心を持った人の親でないことは勿論だが、また必ずしも狂人ではないことも明らかです。挙動そのものから言えば、まさに狂人と銘を打ってもよろしいが、単に夜中に巷《ちまた》を走り、木に登るからといって、それが全く狂人だと断定してしまうのは少し早計です。烈しく人を憎み呪うがために、行動の一部分だけが狂人化したのみで、身心そのものが全部狂うているとは誰しも言いきれないのは、こういう行動をとる女が――いつの世にも、相当に身分もあり、賢明でもありながら、ついにこの種の行動から脱しきれない淑女が絶えないことです。
怖るべきは、憎悪《ぞうお》と嫉妬《しっと》です。人は、ことに婦人は、これがために生き、これがために死ぬものが多い。今、人形を取り出した女人の眼は爛々と燃えておりました。憎悪と、嫉妬と、呪詛《じゅそ》の悪念が集中して象徴化した藁人形を取り出して、松の幹の一面に押しつけると共に、左の手でそれを抑え、右の手をまたも懐中へ入れて、新たに取り出したのは一梃の金槌《かなづち》であります。金槌を取り出す前に、すでに五寸釘が手の中にあったと見えて、それを藁人形の首のところへあてがうと、
「カツン」
憎悪に燃えた眼と、嫉妬に凝《こ》った繊細《かぼそ》い腕とで、幹もとおれと打込んだ藁人形の首から、ダラダラと血が流れ出しました。
その途端に、何におびえたか木の下で、にわかに幼な児が声を立てて泣き出しました。今まで星を眺めて笑っていた子が――
そんなことは、木の上の女の耳へは入らない。釘の中のすぐれて大きなやつを咽喉元に打込んで、その次に、右の腕、左の腕、胴――甚《はなはだ》しいのは足の両股の間をめがけて、上からのしかかるように、金槌の頭も、柄も、砕けよ飛べよと打込んだ後、燃え立ちきった女の眼の中に、見るも小気味よい一点の冷笑が浮びました。
熱狂を以て打込んだ釘のあとを、冷笑を以て見ていると、人形の四肢五体から沸々《ふつふつ》と血が吹き出して来る。藁の人形そのものが、のたうち廻って苦しむ。
血も出ていない、人形も苦しんではいないらしいが、女の眼にはそう見えるらしい。木の上で高らかに笑いました。
女が木の上で笑うと、下ではおさな児が、腸を引裂くように泣いている。
五十八
「丑《うし》の刻《とき》まいり」というのは、古い記録によると、嵯峨天皇の御時代からはじまる。その時代にある公卿《くげ》の女が、何か人を恨めることがあって、貴船《きふね》の社に籠《こも》り、嫉《ねたま》しと思う女を祈り殺そうとしたという古伝があるが、その古伝によると、女は人無きところに籠り、長《たけ》なす髪を二つに分けて角《つの》に作り、顔に朱をさし、身に丹《たん》を塗り、鉄輪《かなわ》をいただいてその三つの足に松をともし、松明《たいまつ》をこしらえて、両方に火をつけ、口にくわえて、夜更け人定まって後、大和大路へ走り出で、南を指して行くところ、頭からは五つの火が燃え上り―
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