一面に散らしたのは、封の切れない切餅もあれば、霰《あられ》のような一朱二朱もあるし、小粒もあるし、全く、瓦っかけや石ころでないのみならず、即座の使用に堪え得る天下の通貨が、大小取交ぜてザクザクと降って湧いて来たからです。
といっても、要するに鬱金木綿が呑んでいたところの胃の腑の程度ですから、曾《かつ》て根岸の三《み》ツ目錐《めぎり》の屋敷で、裏宿の七兵衛が、鎧櫃《よろいびつ》に詰めて置いて、神尾主膳に思い切って突き破らせたあの程度とは、規模も、内容も、おのずから違うのです。けれども、あの時はあれで、破る方も、破らせる方も、また当の目的物たる鎧櫃も、充実しきっていた予想と内容の下に行われたのだから、案外の程度に於ては、この場合と比較にはなりませんでした。
然《しか》るに、今のこの場合は、瓦っかけでさんざんにテラされたところへ持って来て、この内容なのですから、悪党がるほどでもないがんりき[#「がんりき」に傍点]が音《ね》をあげたのも無理はないところで、
「百両百貫!」
見得《みえ》も外聞も忘れて、両手を挙げてみたものです。しかし、百両百貫という計算もかなり大ザッパなもので、両と言い、貫と言っても、貨幣史上の相場には、非常な動揺があるのですから、一概には言えないが、ともかく、こうして黄金であるところの小判というものがあり、一朱二朱の銀判があり、それからザラ銭が相当小出しにしてあるところを見つくろっても、無慮百以上の両目は確実なのですから、そこで絶叫しました。
なあに――百の野郎とても、相当に悪党がる奴なんですから、僅か百両や百貫で度を失うような真似《まね》はしたくはないのですが、何をいうにも、前には大物と踏んだところのものが瓦っかけと化したその反動に加えて、今度は鬱金木綿がこれだけのものを呑んでいたのですから、その上り下りに度胆を抜かれただけのものでしたが、ややあって、急にやにさがって、どんなものだという面《かお》をして、
「だろうと思ったんだ、あれだけの同行のうち、あの作男の草鞋《わらじ》だけが、ちっと切れっぷりが違ったところを見て取った、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の眼力に狂いはねえんだよ」
その言葉が、お蘭どのにはよく呑込めない。
「どうしたというんだね」
「いや、どうもこうもありゃしねえ、お蘭さん、お前はこいつを持って一足先に行きな、おいらあまた一稼《ひとかせ》ぎだ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、こう言ってお蘭どのの、らんじゅく[#「らんじゅく」に傍点]した面をまじまじと見つめると、
「いやな人だね、なんて目つきをするんだよ」
お蘭どのが、手をあげてぶつ真似をしました。
五十二
「おっかあ、おっぱいが一ぱい飲みてえ」
「何だね、そこに、さっきから番茶が汲んであるじゃないか、冷えちまうよ」
「二番煎じが飲みてえ」
「何を言ってるんだね、夜が明けちまうじゃないか」
「遠慮なくお休みなさいよ、わっしゃ、いま言う通り、これからまた一稼《ひとかせ》ぎだ」
「せわしい人だね、いったい、これからどこへ稼ぎに行くんだよ」
「関ヶ原まで、もう一合戦」
「冗談《じょうだん》じゃない」
「冗談じゃありません、こう瓦っかけの上げ壺を食わされたんでは、がんりき[#「がんりき」に傍点]もこのままじゃ引込めねえ」
「何か喧嘩でもして来たのかね」
「一合戦だと言ってるじゃねえか、乗るか反《そ》るかだよ、瓦っかけの仕返しを一番」
「何のこったかわからないが、こっちの鬱金木綿《うこんもめん》でけっこう埋合せがついたからもういいじゃないか」
「なあに、こんな甘《あめ》えんじゃいけねえ」
「お休みな、飛騨の高山からじゃ、ずいぶん疲れているだろうに、ねえ」
「なあに、足なんざあこっちのもんだ、どれ、もう一稼ぎ出陣とやらかすかね」
「いけないよ、もうお止しな」
「留めるのかい」
「まあ、なんにしても、おっぱいを一つ飲んで、落着いてお出かけ。お前さんはそうして、仕返しだか、出稼ぎだか、何だか知らないが、気忙《きぜわ》しく出かけてしまって、置いてけぼりのわたしはいったい、どうなるんだよ、路用はいただいたが、これから、どこへ出向いて、どこで待っていてあげりゃいいのさ、ちっとは相談もあるじゃないか」
「違えねえ――お前はこれから、明日の朝になって、ここの勘定を済ましてから、なにげなく上方《かみがた》へ向って旅立ちな――さよう、草津か、大津か――そんなところでは人目にかかる、こうと、いいことがある、少々道を曲げて石部《いしべ》の宿《しゅく》なんざあどうだね、石部の宿の仮枕なんざあ悪くあるめえ」
「乙だね」
「石部には大黒屋という宿がある、あれへ行っておとなしく泊っていな、明日の晩までにはおいらが大物を一つ料《りょう》って、石部の宿のお前のところまで駈けつけよう」
「じゃ、そうしておくれ」
「合点だ」
「寒い!」
お蘭どのが、わざとらしく肩をすぼめて、暁の風が身に沁《し》みるという風情をして見せると、
「寒かあ寝なな」
一番鶏か、二番鶏の音が、関のこなたで声高く聞える。
「お先へ御免よ」
お蘭どのが、みえ[#「みえ」に傍点]もたしなみもなく、寝床の中にもぐり込んで、そこで頭を出して、プカプカと煙草を喫《の》み出したが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎は、寝たいとも、休みたいとも言わず、
「ああああ、つまらねえ、誰かのように人に働かせて、たんまりと据膳を食って、あったか[#「あったか」に傍点]く寝ている身分になりてえが、持って生れた貧乏ひまなしで、そうもいかねえ」
「勝手におしよ、酔興のくせに」
お蘭どのは猿臂《えんぴ》をのばして、煙管《きせる》の熱い雁首を、いきなり百の野郎の頬っぺたに押しつけたものだから、百の野郎が、
「あ、つ、つ、つ」
と言って横っ飛びに飛び上りました。
五十三
同じ胆吹山麓圏内の西南の麓、琵琶の湖北の長浜の町は、今晩は甚《はなは》だ静かでありました。
宵に新月がちらと姿を見せたままですから、今晩は闇の夜です。闇の夜といっても、真の闇の夜ではなく、星は相当に数えられるのです。
その星の地位からして見ると、アルゴルの星の光が最も低く沈む時分、長浜の無礙智山《むげちざん》大通寺の寺の中へ、「お花さん狐」が一つ化けて現われました。
どういうふうに「お花さん狐」が化けて現われて来たかというと、黒い覆面のいでたちで、痩《や》せた身体に、二本の刀を落し差しといったように腰にあしらい、そうして、物に病みつきでもしたもののように、ふらりふらりと台所門の方から現われて来たのです。
長浜別院の「お花さん狐」といえば、知る人はよく知っている。ほとんど全国的に知る人と知らない人がある。この大通寺がその昔、羽柴秀吉の城地であった時分から、お花さん狐は今日でもまだこの地に棲《す》んでいると堅く信ぜられているのです。秀吉の長浜城の建築物をこの大通寺へ移したと同時に、お花さん狐もここへ移り棲んでいるものと信ぜられている。そうして、寺の栄枯盛衰に関する場合には、霊狐《れいこ》の本能を現わして寺を守ることになっている。狐のことですから、化けるにしても、たいてい美人に化けてその神通力を発揮することになっていて、そこで「お花さん狐」の名が中外に響いているのだが、変化自在《へんげじざい》の身であってみると、必ずしも美人だけにしか化けられないと固定したものではない。
機に臨み変に応じてさまざまの異装を現じて、寺法守護の権現の役をつとめているということだから、今晩は特に好みを変えて、かく覆面姿の、浪人者の、落し差しの体《てい》となって、深夜のそぞろ歩きに、天井裏の鬱《うつ》を慰めに出たのかも知れない。
そこで、この化け物が、台所門の方からふらりと境内の闇に現われました。
ここに台所門と言ってしまえば、お花さん狐が、野良狐《のらぎつね》のように餓えかつえ[#「かつえ」に傍点]てお料理場の油揚の切れっぱしをでも漁《あさ》りに来たかのように聞えて、甚《はなは》だ体裁が悪いのですが、本来、大通寺の台所門というのは、さように口腹のための出納所《すいとうじょ》という意味ではなく、これぞまだ昔の豊臣太閤が、はじめて筑前守に封ぜられた当時に建設したここ長浜の城の大手門でありました。その証拠には、今でも門扉の金具の裏に、「天正十六年戊子八月十六日」と銘が打ってあり、なおまたその扉には矢の根の痕《あと》までついている。しかく英雄によって名残《なご》りを残す一城の大手門なのであって、「お花さん狐」にしてからが、その英雄時代にすでにその同じ城内に巣をくって、長生今日に至るほどの霊狐なのですから、次第によっては歴代の御連枝《ごれんし》以上に信仰もされている。御奉納も豊かである。何を苦しんで深夜を選んで台所口へ残肴《ざんこう》を漁りに出かける必要があろう。
そこで今晩は、特に趣向を変えて、当時はやりの青白い浪人姿となって、ふらりと夜中の散歩を試みたと見れば見られる。
左様に覆面こそしているが、忍びのいでたちはしていないし、忍びの呼吸にもなっていない。この通りふらりふらりと着流しで歩いてはとまり、とまっては歩いているのだから、兇悪なる屋尻切《やじりきり》の目的を以て外間からこのところへ狙《ねら》い寄った白徒《しれもの》でないことは確かです。
大通寺の境内は広いから、夜更けてのお花さん狐の散歩区域に不足はない。
五十四
こういった化け物が、長浜別院の境内にそぞろ歩きをはじめた時分――これも有名な「玄関の松」の木の下方で、子供の咽《むせ》び泣く音が起りました。
仮りにも玄関といえば表の方でなければならないし、昔は大手門であっても、台所門と名を変えた以上は、どうしても裏手の方でなければならない。
そこで、お花さん狐が、覆面の落し差しに化けて、彷徨《さまよ》い出した方面と、今、子供の咽び泣く音の起った方面とには、裏と表の相違がなければなりません。
裏の覆面は推理上異様なものでしたけれども、表の「玄関の松」の下の子供の泣き声はさのみ変化《へんげ》の声とは思われません。時が時、ところがところで、子供だけがひとり泣いているのだから、それは不自然は不自然に相違ないけれども、こういう不自然は人間社会に於ては、いつの世にも絶えない不自然で、深夜、松の木の下の寒空に、乳呑児ひとりだけを泣かして置くという親には、親としての因縁がなければならぬ。つまり、これは棄児《すてご》なのでした。
すでに、どのくらいの時間の前であったか、この松の木の下へ持って来て、産み落して四月ばかりになる人の子を一人持って来て、捨てて置いたものがありました。
親というものは、裸で産み落したにしても、その子を捨てるのに裸ではすてない。時として身分不相応な装飾を施し、できるだけの保護を加えた上で、捨てるのを習いとする。
今、捨てられた子を見ると、相当の籠《かご》の中に入れて、その周囲《まわり》をまだ新しい、特にこの子を捨てなければならないために手製したと思われる小さな蒲団《ふとん》をしいて、その上に、縫目も縞目も新しかるべき仕立卸しの衣服をもって固く夜風をさえぎっている。なおそのほかに、籠の左右にこぼれたものを見ると、でんでん太鼓だの、風車だの、ピーピーだの、おしゃぶりだの、そりいうものが積まれているのみか、徳利の頭へ管《くだ》をつけて、その管の一端が、子供の口許にまで導かれて結えられている。
つまり、こうして棄てて置いて、棄てた主は早くも姿をくらまし、棄てられた子は、その当座だけは、徳利の乳の甘さに我を忘れてほほ笑んでいたと見えたのが、今それに飽きてみると、はじめてわが身の孤独を感じ、親を呼んでみたが、いつものように温かい手を与えてくれないところから、急に咽《むせ》び泣きを立てたものらしい。
しかし、しくしくと泣いたが、暫くするとまた黙ってしまいました。この子は性質のおとなしい子であるけれども、やがてまた、わっ[#「わっ」
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