であったのです。ですから、伊太夫は夢の中でも、この夢の全く取止めようのないのに呆《あき》れているのです。
もう一度繰返して見ると、お銀様はここへ来る前から、関ヶ原の軍記に相当のあこがれを持ち、ここへ来てから、関ヶ原合戦の絵巻物を見せられ、それから、関ヶ原の夜の風物に直接存分触れて来ての後の夢でしたから、見せられた夢も当然であり、見た当人も不思議はなかったのです。お銀様はあの時、この部屋で大谷刑部少輔《おおたにぎょうぶしょうゆう》の夢を見たのです。見ようとして見たのです。お銀様こそは、関ヶ原の軍記に憧《あこが》れを持つというよりも、大谷刑部少輔その人に、かねてより大いなる憧れを持っておりました。
何故に女人としてお銀様が、人もあろうに大谷刑部少輔吉隆にそれほどまでに憧憬を捧げているのか――
お銀様は、どうしたものか、関ヶ原の軍記に於て、西軍に同情を持っている。石田、小西に勝たさせたいという贔屓《ひいき》が、物の本を読むごとにこみ上げて来るのを如何《いかん》とも致し難い――だがそれは、石田、小西が好きだからではない、別にお銀様の心魂を打込むほどに好きな人が、関ヶ原軍記の中に一人あったからです。その人こそ、無上の共鳴と、同情と、贔屓とを捧げている。常の時でさえお銀様は、その人のことを思い出すと涙を流して泣く。歴史上といわず、およそありとあらゆる人間のうちで、お銀様をしてこれほどに同情を打込ませる人は、二人とないと言ってもよいでしょう。その人は誰ぞ、それがすなわち大谷刑部少輔吉隆その人なのであります。
その好きな人を、その人の最期《さいご》の地で、夢に見たのだから本望です。本望以上の随喜でした。あの盛んな大芝居を夢見てしまった後のお銀様は――
――石田三成も悪い男ではないが、大谷吉隆はいい男だねえ。
わたしは日本の武士で、まだ大谷吉隆のようないい男を知らない。今はその人の討死した関ヶ原へ来ている。あのいい男の首塚が、ついこの近いところになければならぬ。
わたしは何を措《お》いても、あの人の墓をとむらって上げなければならぬ――明日、明朝――いいえ、今夜これから、ちょうど、月もあるし……
大谷吉隆の首を、わたしはこれからとむらってあげなければならない――
かくてお銀様は、月の関ヶ原をさまよい尽して、ついにどこよりか一塊の髑髏を探し求めてまいりました。
その髑髏が果して、大谷刑部少輔の名残《なご》りの品であったか、なかったか、そんな詮索は無用として、お銀様は心ゆくばかりその髑髏を愛しました。面目《めんもく》が崩れ、爛《ただ》れ、流れて、蛆《うじ》の湧いている顔面がお銀様は好きなのでした。大谷刑部少輔の顔面としてではなく、自分の顔面としての醜悪は、無上の美なりとして憧れていたのですが、その時の髑髏は米友によって洗われ、弁信によって火の供養を受けて、立派に成仏しているはずですから、またもここへ迷うて出て、父の伊太夫を悩まさねばならぬ筋合いは全くないのであります。
四十五
果して、伊太夫の見た夢は、お銀様の見た夢ではありませんでした。衣冠束帯に変装した床上の髑髏が、いつの間にか、またもとの一塊の白骨となって、床上に安んじているのを見ると、夢は夢でありながら、伊太夫もなんだか、ばかにされたような気になって、これはそもそも、この三藐院が曲者《くせもの》だなと思いました。
三藐院の掛物が最初から頭にあるので、それで、つい衣冠束帯のお化けが出て来たのだ。いったい、この座敷へ通されてから、これは三藐院だなと認識はしたが、その三藐院が何を書いていたのだか、そのことには、あんまり注意しなかったのです。しかし、今となって、こいつ、なかなか曲者だと考えたものですから、ひとつ読んでみてやれという気になりました。
無論、それは三藐院のことだから、書いてあるのは和歌に相違ないとは思うが、この和歌が、古歌であるか、或いは三藐院自らの作になるものであるか。
伊太夫は、そういう心持で特にこの掛物の文字の解読にとりかかってみると、
[#ここから2字下げ]
置くは露
誰を食はうと鳴く烏
[#ここで字下げ終わり]
と二行に認《したた》められてあったので、ひどく頭をひねらざるを得ませんでした。
これは和歌ではない、発句だ。三藐院とある以上は、誰が考えても和歌でなければならないはずなのに、こう読みきったところでは、発句であるほかの何物でもない。
三藐院が、書画ともに堪能《たんのう》であられたことは知っているが、発句を作られたことは曾《かつ》て聞かない。また三藐院が発句を作られる道理もないと思う。連歌の片われかと思えばそうではない、立派に独立した発句になっている。と同時に伊太夫は、この発句が、たしかに誰かの句であったということの記憶が呼びさまされました。誰だっけな、芭蕉でなし、鬼貫《おにつら》でなし、也有《やゆう》でもなし……
[#ここから2字下げ]
置くは露
誰を食はうと鳴く烏
[#ここで字下げ終わり]
伊太夫が、しきりにその句の主を探し出そうと試みていると、天井の上から非常に気味の悪い鳴き声をして、髑髏をめがけてパサと飛び下りて来たものがあります。これが一羽の烏です。
「叱《し》ッ」
と伊太夫が叱ったものですから、烏もさすがに人間を憚《はばか》って、髑髏の上へじかに飛び下りることはやめましたけれども、少しあちらにうずくまって、その貪婪《どんらん》な眼をかがやかして、こちらを覘《ねら》っている体《てい》が、憎いものだと思わずにはいられません。
まさしくこいつは、この髑髏《どくろ》を食いに来たのだ、こうなってみると、そうはさせないという気になって、こいつを勦滅的《そうめつてき》に追い払わなければならぬ、得物《えもの》は――と伊太夫もあたりを見廻したけれども、手ごろの何物もありません。ただ、枕許に置いた道中差――これは少々大人げないと思ったところ、幸いに畳の上に掛物竿がありましたから、これを取り上げて、烏を追い飛ばそうとしました。
ところが、この烏め、こちらに征服意識があると見ると、憎さも憎い、人間に向って、一層の反抗意志を示して来て、その貪婪《どんらん》な眼と、鋭角な嘴《くちばし》をつき出し、隙《すき》をねらって飛びかかろうとする。髑髏をめがけてではなく、伊太夫を当の敵として刃向って来ようとするのが憎い。
四十六
伊太夫が見つめると、こいつは「定九郎鴉《さだくろうがらす》」だなと思いました。定九郎鴉という鴉があるかないか知れないが、まさに烏の中の無頼漢だ。頭を菊いただきのように、ひら毛を立てて隙をねらう、あの目つき、物ごしを見るがいい。
掛物竿ではっしと打つと、それをかいくぐった定九郎鴉は伊太夫に飛びかかるかと思うと、そうではなく、伊太夫の袖の下をくぐって、飛びかかったのは、古代切に包んだ上代瓦の箱物でありました。その結び目へ鋭い嘴をひっかけると、その包みを啣《くわ》えて引摺り、ぱっと飛び退きました。
「こいつ」
伊太夫が、またも掛物竿を取り直す隙に、早くも定九郎鴉めは、どこをどう逃げたか、全くこの座敷から姿を消してしまうと、伊太夫がホッと息をつき、
「うーん」
とうなされただけのものです。しかし、暫くすると、本当に眼がさめました。
眼がさめたと思うと、外で鳥のはばたきを聞きましたが、それは烏ではない、鶏であることがよくわかり、同時にその鶏が声高く時をつくるのを聞きました。
鶏が鳴いたな、何番鶏か知らん、こちらは眼がさめたけれども、夢を見すぎたせいか、どうも寝足りないような気がしてならぬ。と、伊太夫が床の中でうつらうつらしていると、裏口で人の声がする。これはまぼろしの人の声ではない、現実生活の声だ。現実生活の声も、旅籠屋商売《はたごやしょうばい》などは、現実が未明から夜更けまで続く。旅にいて朝呼びさまされる時に、人は人生というものに急《せ》き立てられる思いがしないではない。
だが、この早朝――というよりは未明、いくら人を泊め、人を起して立たせるのが商売だと言っても、少し勉強が過ぎるようだ。これほどまでに早朝、これほどまでに慌《あわただ》しい働きぶりをしなければ立行かないというほどに、競争の烈しい土地とも思われないし、またそういうふうに要求するほどの団体客も見えてはいないはず。
少々騒々しいなと思っている寝耳へ、急に襖《ふすま》を開いておとなうものがありました。
「お休み中を恐れ入りますが、少々お伺いいたしとうございます、モシ、何かお失くなりものはございますまいか、念のため、お伺いいたしとうございます、手前共の不注意でございまして、昨晩、湯殿の戸締りが出来ておりませんものでしたから、そこから、どうも忍び込んだ模様でございまして」
その声は、昨晩寝入りばなに、箱入りの包みを持って来た主人の声に相違ないから、伊太夫がはっと思うと同時に、気のついたのは、昨晩、この人が持って来て枕許へ置いて行った古代瓦の袋入りの箱が、いつか姿を消して見えないことであります。
「あ、やられた、たしかにあの定九郎鴉に」
この瞬間、伊太夫の眼にうつって来たのは、人間としての盗賊でなく、烏としての、憎い奴の形でありました。
では髑髏《どくろ》は――と見ると、髑髏は宵のままで更に異状はなく、三藐院《さんみゃくいん》はと見れば、これも更に微動だもせず、文字を再び読み解いてみると、「置くは露」といったような筆画《ひっかく》は一つもなくて、筆跡はまさしく三藐院の筆ですが、歌は、
[#ここから2字下げ]
あしひきの山鳥の尾のしたり尾の
なかなかし夜をひとりかもねむ
[#ここで字下げ終わり]
四十七
伊太夫の座敷に於て紛失したものは、上代瓦を入れた箱入りの包だけでありました。ほかにはなんらの被害はなかったのですが、これは、床上の髑髏が呑んでしまったわけでもなし、定九郎鴉が啣《くわ》えて行ってしまったのでもありません。主人の言うところの如く、湯殿の戸締りの用心の足りなかったのを利用して忍び込んだ盗賊の為す業でありました。
伊太夫は宿の主人のために、それを気の毒がって弁償しようと言いましたが、主人は事もなげにそれを辞退して申しました、
「なあに、申せば瓦っかけでございますからな、値につもっていただくわけには参りません、もともとこっちの戸締りの用心が足りないせいでございまして、申し訳のない次第のものでございます、ほかに何もお怪我がなくて、それが何よりの仕合せでございます」
と言って、どうしても弁償を取ることをうけがわないのです。
「瓦っかけと言ってしまえばそれまでだが、あれで好事家《こうずか》の手にわたると、相当|珍重《ちんちょう》の品なのだ、それにあの箱が珍しいと思いましたよ」
「いや、手前共では、その道の熱心家が御所望でしたら、只《ただ》で差上げてもよろしいと存じていた品でございます」
「盗んだ奴は、あれを持って行っても始末に困るだろう、もしな、御主人、帰りまでにめっかったら、わたしが所望いたしたい」
「よろしうございますとも。全く仰せの通り、盗んだ奴も、あれを持って行ったところで、それこそあけて口惜《くや》しき、というところでございましょう――いずれその辺に放り出してあるかも知れません。時に、お連衆《つれしゅう》のお方にも御異状はございませんでしたか」
伊太夫が引連れて来た四人の同勢のうち、三人までは、伊太夫の部屋を守護するような陣形で別室へ寝ましたが、これらはなかなか用心が厳しくて、寝ている間も油断がなかったのかどうか、更に被害の形跡もありませんでしたが、その最後の下男の茂作が、この騒ぎにまだグウグウと眠っている。
これを起して見ると、こいつが鬱金木綿《うこんもめん》の胴巻がないといって急に騒ぎ出しました。命から二番目のものを取られたほどに騒ぎ出しましたが、宿の者は、あんまり問題にしませんでした。
この男の胴巻では、取られたところで知れたものだと、頭から見くびってしまって、ロ
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