りでした。
いま言う通り、唄の文句は全くわからないが、メロディを捉えることに於ては、この女に相当の教養があり、そのリズムに動かされると、心酔し易《やす》いことは、天才と言えなければ、病的なほどの鋭敏さを持っているのです。
女はもう、しんとして聴き惚《ほ》れてしまいました。なにもかも忘れて、野卑で、下等で、醜悪な人間が奏《かな》でる、一種異様な異国情調の漂蕩《ひょうとう》に堪えられなくなってしまったと見えて、
「マドロスさん、何という曲だかわたしは全くわからないが、聞いていると泣けてしまってよ、泣かずにはいられなくなってよ」
と、その一曲が終った時、女は無性《むしょう》に涙を流しながら言いつづけました。
「何という唄だか知らないが、聞いているうちに、何とも言えない熱い情合いがうつって、たまらない。異国にも、やっぱり恋無情といったようなものがあるのね。日本の国と同じように、苦しい世間の中に、甘い恋路をたずねて、死ぬの生きるのともがいている、血色と肉附のよい若い男女が狂っているような、苦しい――けれども甘い、淋しい、哀《かな》しい世界が、まざまざと見え出して、わたし、たまらなくなってしま
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