しい。従って、教育もなければ、教養もない。しかし、官能だけはどうやら人間並みに発達していて、特に音楽は好きでした。
 好きといったところで、高尚な音楽を味わうほどの教養はなし、また特に教養以上に超出する天才でもなし、ただ、横好きというだけで、見よう見まねに音楽をやることが、まずこの男の唯一の趣味でもあり、生活の慰安でもあったでしょう。
 ところが、地球上の津々浦々を家とするマドロスの境涯に、一つの恵まれた役得というのは、その国々に行われるところの異種異様の音楽なり、舞踏なりを、その国ぶり直接にひたることができるという特権でありました。
 ですから、この唄にしても、日頃やる怪しげな舞踏にしても、巧《うま》いとか拙《まず》いとかいうことは別として、ともかくも、みんな直接本場仕込みであることだけは疑いがないのです。本場仕込みと言ったところで、おのおのその国の一流の芸事に触れて来たというわけではないが、気分にだけは相当にひたって来ているのですから、今、スペインのフラメンコをやり出そうとも、ナポリのタランテラを振廻そうとも、それが物になっていようとも、いなかろうとも、ともかく、自分みずからその境
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