りほかに手段はない。
 無茶な罪跡を隠すためには、やみくもに自分の姿を隠すよりほかはない、と醒めた瞬間にそう気がついたものですから、そこで神尾は走りました。この時の走り方は、方向を選ぶの余裕がありませんでした。一時はもと来た根岸の方向へと思いましたが、また同時に、それはかえって危ないというような本能的のひらめきで、小路、裏路へ向けて走りました。

         百十三

 自分ながら、どこをどう逃げて、どう落着いたか分らないが、ふと眼が醒めて見ると、神尾主膳は、あたりが全く暗くなっていることと同時に、けたたましい題目と磬《けい》の音とが、耳に乱入して来るのを聞きました。
「ははあ、日が暮れてしまったのだ、あの音で思い出した、そうだったか」
と、自分の身が、薪小屋の中に積み重ねた薪と薪との間のゆとりの中にいることを発見しました。
 不思議でもなんでもない。あれから、自分はここへ逃げ込んで隠れたのを、隠れているうちに不覚にも、つい一睡に落ちてしまっていたのだ。この寺は何という寺だか知らないが、やかましく磬を叩いて、お題目を唱えているところを見ると、法華寺《ほっけでら》に違いない。
 寺
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