奴が一人いたのです、今となってわかるのです。なぜわかるかと言えば、あの、僕がこれを抜こうとした瞬間に、誰の心もみんな僕に向って集中するのはあたりまえなんで、みんなの心が集中するから、こちらも精神の統一が出来て、わざがやりよいのです。しかるにあの時、役人の傍に一人だけ変な奴がいて、何か僕の周囲《まわり》で、別な心持を持ってちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]していたのが、いま思い当るのです、そいつが僕の手形を抜き取ったのです」
「人の手形を抜き取って何にするつもりだろう」
「何にするつもりか、それはわからんですが、単なる悪戯《いたずら》でもないでしょう。しかしです、もうそれと知った以上、詮議しても無駄ですから、僕は諦《あきら》めます」
「あきらめると言ったところで君、これから旅行免状なしに、どこへ行こうとするのだ」
「手形は無くても、道路があり、足がある以上は、行って行けないはずはないでしょう」
「そりゃあ理窟というものだ、君はまだ旅というものを知らない」
と、改めて田山白雲は、この青年に教訓してやる心持になりました。
 この青年は旅を知らないが、自分は知り過ぎている。旅というものは、足
前へ 次へ
全551ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング