行方不明でありました。
 だから、この騒動は、動揺だけはずいぶん烈しく、いまだに附近の人心は恟々《きょうきょう》としているのですが――当事者は、加害被害ともに跡かたもなくなっている。騒動は騒動だが、狐につままれたようになっている。
「斬ったのは、身分ありげな侍だ」
「斬られたのは、水戸の百姓だ」
「斬ったやつには、お供が一人ついていた」
「そいつはたぬき[#「たぬき」に傍点]のような奴だった」
「斬ったおさむらいは、旗本のおしのびらしい」
「斬られたのは、水戸の百姓」
 どちらも根拠のある説ではないが、斬られた方を、水戸の百姓ときめてしまったのがおかしい。
 かくて、神尾の行方はわからないが、鐚は鐚であれから一目散に、横っ飛びに飛んだけれども、本来、転んでも只は起きないふうに出来ている男だから、横っ飛びにも一定の軌道があって、まもなく同じ三輪の町の、とある非常に大きな構えの門内へ飛び込むと、雪駄《せった》を片足だけ玄関の上に穿《は》き込んで、
「た、た、たいへんでござります」
と言って、頬っぺたを抑えたままその玄関に倒れると共に、息が絶えてしまったのはかわいそうです。

       
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