集の中に殺到しました。
 それは、当るを幸いに斬るつもりはなかったのでしょう。自分ながら、思わぬ昂奮からやや醒《さ》めてみると、あたりの光景がもう許さないものになっている。理不尽《りふじん》に人を斬った狼藉《ろうぜき》武士――袋叩きにしろ、やっつけてしまえ、という空気がわき立っている。

         百九

 その時に、目の色を変えた鐚《びた》が、周章《あわ》てふためいて神尾主膳にとりつき、
「殿様、な、なんとあそばします」
 それを突き放した神尾主膳が、
「逃げろ! 鐚」
と言って、一ふりその脇差を振り廻したところが、それがほんの糸を引いたほど、鐚の頬をかすったものですから、真甲から断ち割られでもしたもののように、鐚が後ろへひっくり返ると共に、頬を抑えて起き上り、脱兎の如く逃げ出しました。
 群集の中へ殺入した神尾主膳の姿も、いつしか見えなくなって、町の巷《ちまた》が恐ろしい空気の動揺を残しているだけです。
「斬った!」
「斬られた!」
と、千住三輪街道は、往《ゆ》くさ来るさの人が眼の色を変えて騒ぐけれども、斬った当人の姿はいつしか見えず、斬られた本人は、どこへどう逃げたか行方
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