脇見をしながら歩いていたのが、はからず神尾にぶつかってしまったので、それがちょうど、百姓を呪い、水戸を憎んで、悪気が全身に充満していた神尾のことですから、たまりませんでした。
「無礼者! 貴様は水戸の百姓か」
 勃然として神尾主膳は脇差を抜いてしまったのです。抜いてただ威《おど》すだけならまだしも、百姓を呪い、水戸を憎む一念が、つい知らず、その抜いた脇差の切先まで感電してしまったので、
「人殺し!」
 ぶっつかった人間は、怖ろしい絶叫をしながら、もと来た方向、つまり千住大橋の方へ向って無二無三に逃げ出したのです。
「そうれ、人殺しだ!」
 白昼、四宿《ししゅく》の中の往還のことですからたまりません。
 殺気がみるみるその街道に充溢して、忽《たちま》ち往来止めの有様でした。
 主膳は眼を吊《つる》し上げて、脇差の抜身を持っている。その地面にはたしかに血の滴《したた》りがあり、脇差の切先にも血がついている。道行く人は逆転横倒する。
「無礼者! 貴様は水戸の百姓か」
 今日は酒乱とは言えない昂奮ですが、昂奮の程度が、もはや酒乱以上に達している。
 再び脇差を振りかぶった神尾主膳は、そのまま群
前へ 次へ
全551ページ中301ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング