、このお婆さんの態度が無遠慮なのは、故意にするわけではなく、多分、与八の人相そのものを鑽仰《さんぎょう》することに急で、挨拶の方も、お礼の方もお留守になっているうちに、すっかり忘れてしまったものでしょう。
その時分に、与八はおもむろに湯槽から郁太郎を抱いて上って来ました。郁太郎の身体《からだ》を拭いて、着物を着せてやり、笊の傍に坐らせて置いて、自分は裸一つのままで番台の方へ行きましたが、土間を見ると、お婆さんの穿《は》いて来た草鞋《わらじ》が無造作に脱ぎ捨てられているのを見て、与八は、こごんでその草鞋を丁寧に取り上げると、それをじっと二つの手を以て押しいただいてから、傍らの番号を打ってある下駄箱の中へと納めました。
その時分は、お婆さんの方は、早くも湯槽に身を漬けておりました。与八、郁太郎が上ってしまってから、湯槽の中はお婆さんの一人湯です。
そこで、いい気持そうにお婆さんは唸《うな》りながら、面《かお》を拭いて、こちらをながめておりましたが、今、与八が自分の草鞋を押戴いて棚の中へ納めたのを見て、一時、眼を皿のようにしましたけれども、また、改めて、にっこりと心持のよい笑い方をして
前へ
次へ
全551ページ中236ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング