みかけているその瞬間を妨げられた群犬は、ここでは残らず狂犬であり、猛獣化しておりました。
 相手を見つけたのです。今までの、食いよさそうな幼な児一匹では食い足りない、と思っているところへ、また一塊の肉が投げられた、いや、好んで餌食に投じて来た奴がある。「御参なれ」餓えたる犬共は、幼な児を打捨てて、新たなる相手に向って一様に牙を鳴らしかけた時は、食慾のほかに憤怒が加わっておりました。

         六十三

 もう竹の杖では間に合わない。
 打つことは打つが、打ち殺すことはできない。その竹の杖で、犬の足を打ち折ったり、耳を叩き落したのもあり、体を突き崩したのもあるが、相手の戦闘力を全滅せしむるわけにはゆかなかったので、黒衣の覆面は、少し焦《じ》れ立ったようです。
 畜生の分際で――よし、その儀ならばと、竹の杖を投げ捨てると、キラリと脇差を抜きました。
 これが人間ならば、おきまりの「やあ、抜きゃがったな、しゃらくせえ、水道のお兄さんの身体へ、なまくらが立つものなら立ててみろ」とかなんとか、啖呵《たんか》を切りながらも用心を改めるところなのですが、犬ですから、その見境いがありません。
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