いと思うが、いったい、その胆吹王国というのはどういう性質の組合なんだか、そいつを聞かしてもらいてえ」
「王国なんて、ずいぶん僭上《せんじょう》な呼び方かも知れませんが、不破《ふわ》の関守さんが、冗談におつけになったんですから、お気になさらないでお聞き下さい」
「そりゃ、帝国なんて言おうものなら口が裂けるけれど、王国ぐらいならいいさ、三井王国《みついおうこく》だの、鴻池王国《こうのいけおうこく》だの、ずいぶん言い兼ねねえ」
「このことの起りは、あのお銀様の頭脳《あたま》一つから出たことなんです。あのお銀様って、どうも不思議なお方ね、とても頭がいいんです、それに、どのぐらいお金があるか底の知れないというお家にお生れになったんですから」
「ははあ、道庵なんぞはそれと正反対だね、頭の悪いことは無類だし、お金なんぞは商売物の薬にしたくもねえ――」
と道庵が、げんなりしたが、お雪ちゃんは悄気《しょげ》ませんでした。
「そうして、この胆吹山の麓に、見渡す限り広大な地所をお求めになったのです、今はとりあえず身近の人たちだけの館を造っておりますが、これから大きな御殿を建てて、望みを持った人たちにはみんな集まってもらい、今の世間と全く違った世界を、この胆吹の山の麓に新しくこしらえ上げるんですって」
「なるほど――」
「そこで、この胆吹王国では、どうも少しむずかしい言葉なんですけれど、人間が絶対に統制されるか、そうでなければ絶対に解放されるんだと、関守さんも申しておりました」
「うむ、なかなかむずかしい」
「それにはまず、ここに住む人たちがみんな、自給自足と言いまして、生活は直接に土から取って、人に衣食をさせてもらわないこと、人に衣食をさせてもらいさえしなければ、人間が人間に屈従しなくてもよろしい、ですから、ここに集まる人は、自分で自分の食べることだけはしなければならない、それが自由にできるようにして上げるのだそうです」
「それは賛成だね、国中へ穀《ごく》つぶしを一人も置かねえということになると、みんなの励みにならあ。だがねえ、お雪ちゃん、そうしてみんな働いて衣食を生産して食うということになると結構は結構だがね、まあ、愚老はまず商売柄のことから言うがね、病人が出来たらどうするんだ、病人が――病人を取捉まえて衣食を生産しろとは言えめえ」
「そりぁ先生、そんなことは人情で分っているじゃありませんか、誰も好んで病気になる人はありませんから、病人が出来れば、当人にもゆっくり休ませるように、その仕事は、いくらでも代ってして上げるようにできるじゃありませんか」
「そうか、それはそれでいいとしてだ、では、病人に対するお医者の方へ廻るがね、お医者をどうするんだ――なかなかこれで、十年や二十年|薬研《やげん》をころがしたって、誰にも代ってやれるという商売ではねえ――」

         三十五

「ですから、その道の人はその道の人を頼まなければなりません、その道の人を頼むと言いましても、なかなか変った人でなければこういうところへは来てくれません、来てくれるような人は未熟の人か、世間を食い詰めたような人、そこへ行くと先生なんぞは、人間も変っていらっしゃるし、腕の方も大したものですから、先生のようなお方がこの胆吹王国にいらしって下さると、ほんとうに願ったり叶ったりだと思いますわ」
「こいつは見立てられたね――」
 道庵は頭を丁と一つ平手で叩きました。
「ですからね、先生、お江戸の方はお弟子さんに譲って、ぜひこちらへいらっしゃいよ、ここならば京大阪は近いし、江戸へおいでになりたければ一足で海道筋です、わたしがついていますから、お身の廻りのことは御不自由はおさせしませんから、別に億劫《おっくう》なお気持をなさらずに、胆吹山の別荘へ御隠居をなすったと思って、こちらの人におなりなさいな」
「お雪ちゃんに、そう言って口説《くど》かれると道庵たまらないね、ついふらふらと、その気になってしまうよ」
「その気におなりなさいまし、わたし一生懸命、先生を誘惑するわ」
「誘惑は驚いたね。だが、この年になって道庵も、お雪ちゃんのような若い娘に誘惑されるなんぞは嬉しい、嬉しい」
「先生がお連れになった、あの米友さんだって、もうこっちのものよ」
「そうして、我々仲間をみんな誘惑して、胆吹王国の一味徒党の連判状にしようなんて罪が深い!」
「ですけれど、むりやりに首に縄をつけてもというわけじゃありませんのよ、相当の理由があればいつでも組合を外《はず》れていいことになっておりますから、そこは安心して、ともかくも先生、少しの間この組合に入ってみて下さらない、わたしも、はじめのうちはあのお銀様というお方が、全く気の置ける、怖い、やんちゃな、我儘《わがまま》なお嬢さんだとばっかり思って、縛られたつもりでいま
前へ 次へ
全138ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング