は、申すまでもなく杖をとどめた道庵先生であります。
さればこそ、道庵先生のハイキングコースは、ひとり旅ではありませんでした、連れがあったのです。しかもその連れは、若い娘の声で、おたがいに別れ別れに、路と森を隔てて通ってはいるが、その目的は相並び行くものでありました。
「ずいぶん、この辺にたくさんありますのよ、これごらんなさい」
先生の足を森の中へ煩《わずら》わすまでもなく、林の中から少女自身が姿を現わして、道庵先生の目の前へ出ました。
愛らしい少女だが、頭に手拭を姐《ねえ》さんかぶりしている、小脇に目籠《めかご》を抱えている、そうして道庵先生の方がきちんとした旅姿なのに、少女はちょっと草履《ぞうり》をつっかけただけの平常着《ふだんぎ》であることが、いささか釣合わないけれど、この少女がお雪ちゃんという娘であることは、ほぼ間違いがありません。
三十三
これによって見ると、道庵先生は正式に胆吹山のハイキングコースを通り、お雪ちゃんは、リュックサックを背負ったり、ロイド眼鏡をかけたりしないで、ほんの突っかけ草履の略装であることによって、二人が最後まで同行の覚悟でないことはわかっています。
手拭を姐さんかぶりにして、小脇に目籠を抱えたままで出て来たお雪ちゃんが、目籠の中へ手を入れて、何か摘草のようなものを取り出して、先生の目の前へ持って来て見せると、道庵先生がいちいち頷《うなず》いて、
「そうだ、そうだ、それがセンブリだよ、花の咲いた時分に採って乾かして置くと胃の薬になる。これはマンドウ草といって、やはり葉は花時に採って喘息《ぜんそく》の薬にする。こちらのは薄荷《はっか》だ。こいつはそれ、何とかいったな、二年目に出来た茎立葉《くきたちは》を花時の初期にとって乾燥して置くと、心臓病によく利《き》くあれだよ。それは睡菜葉《すいさいよう》といって、苦《にが》くて胃の薬になる。すべて苦いやつはみんな胃の薬というわけではないが、胃の薬はたいてい苦いと心得ていなさるがよい、それ、良薬は口に苦し……」
目籠の中の植物の一つ一つに就いて、道庵が説明をはじめたところを見ると、どうも摘草にしては時候が変だと思われた疑いも解け、お雪ちゃんが、右の略装で、そこらあたりの薬草を採取しているのだということもよくわかります。
薬草の吟味ならば、道庵がお手のものでなければならないから、お雪ちゃんの提出する一茎一草について、流るるが如く立派に答えつ教えつしてのけることも不思議ではない。道庵も多年この道で飯を食い、天下のお膝元で十八文の道庵先生といえば、飛ぶ鳥を落したり、落さなかったりしているのですから、医学と密接の関係がある本草《ほんぞう》の学問に於ても、そう出放題や、附焼刃ばかりで通るものではありますまい。お雪ちゃんが提出するほどのものは、いちいち苦もなく取って投げたが、そのうちに、ちょっと一つにひっかかって眼を白黒し、
「うむ、ええと、こいつは……こいつはちょっと難物だぜ、大医博士深根輔仁《おおいはかせふかねすけひと》の『本草和名《ほんぞうわみょう》』にもねえ全く変り種だ、だろう、多分なあ、こいつがそれ、キバナノレンリソウとでもいうやつなんだろう、確《しか》とは言えねえがね。なんしろ、お前さん、この胆吹山というやつが、織田信長の時に、薬園相応の土地だとあって、五十町四方を平らげて薬草を植えたんだからな。その種類が、ざっと三千種に及んでいるということだから、道庵がいかに博学だって、お前、そうは覚えきれねえわな。それにお前、大医博士深根輔仁の本草ばかりじゃあ間に合わねえ、キリシタンバテレンの宣教師てやつが、あっちの薬草を持込んで植えてるから、どうもいけねえよ、キリシタンバテレンは昔から道庵のお歯に合わねえのさ」
と言って、道庵先生は、薬草の中のわからないのを一つごまかしてしまいました。
お雪ちゃんは別に、道庵先生を困らせて手柄とするために難問を提出したわけではないから、そのくらいで打切って、そのまま、道庵先生に引添うて登りにかかりましたけれども、きりっと足ごしらえをしているに拘らず、道庵の足許が甚だあぶないのは、いよいよ以て先生のハイキングが怪しいものであり、お雪ちゃんが、白骨、乗鞍、上高地の本場で鍛えた確実なステップを踏んでいることがわかります。
三十四
お雪ちゃんは言いました、
「ねえ、先生、あなたもこの胆吹王国の一人として、わたしたちと一緒にこの館《やかた》へ、末長くお住いになりませんこと」
「ははあ、そりぁなんしろ愚老一生涯の大事だから、そう右から左へ即答はできない。だがお雪ちゃん、お前さんという人は、わしぁ好きだね。お前さんのような娘が、しょっちゅう傍についていてくれるところならば、永住してみてもい
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