曰《いわ》く、
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「楠木正成ハ人ニテ作リ、忠義ニ用フルモノナリ」
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 唖然《あぜん》として教員先生が言わん術《すべ》を知らなかった。これが軽薄なるデモ倉やプロ亀の口より出でたとすれば、許すべからざる冒涜《ぼうとく》であるが、無邪気なる小学児童が苦心のあまりに出でた作文の結果とすれば、単に一場の笑柄《しょうへい》のみです。
 ついでにもう一つ――これは大菩薩峠の著者が、小学校時代、七つか八つ頃親しく隣席で聞いた実話――同様の目的で、受持の先生が、「先生」という題を生徒に課しました。先生というのはつまり教師のことで、師の恩ということは、日ごろ口をすくして教えてあるのですから、もはや小さい頭にも充分の観念は出来ていると見たからでしょう。そうすると著者の隣席の同級の、しかも女の子でした、苦心惨澹して、石盤の上に認《したた》めた名文に曰く、
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「先生ハ人ヲ教ヘテ、銭ヲ取ルモノナリ」
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 これを一読したその時の先生は、よほど短気の先生であって、これを見ると赫《かっ》とばかりに怒り、
「いつ先生が銭を取った!」
 その時分には、小学校に於ても相当に体罰が流行《はや》ったものです。いきなりその女の子にビンタを一つポカリと食わせましたが、少し神経痴鈍な女の子でしたから、別段、泣きもしないで、何の故に自分が打たれたのだか理解する由もないような面《かお》をしていたのと、その時の先生のすさまじいけんまくは、いまだに著者の目に残っている。
「何々ニ遊ブノ記」の記事文の型も、その前後に流行したもので、われわれ小学生も、必ずその書出しには、「コノ日ヤ天気晴朗」と、「空ニ一点ノ雲無ク」と、「一瓢《いつぴょう》ヲ携ヘ」は必ず書かせられたものです。雨が降っても、風が吹いても、天気晴朗と書かなければならないものだと心得ており、携えた一瓢の中は何物だかということは、説明を与えられることもなく、説明を求むるほどの知恵もなかったものです。
 しかし、今日、このところ、道庵先生のハイキングに当って、天気晴朗にはいささか申し分があるけれども、一瓢を携えたことだけは一点の疑う余地はありません。

         三十二

 道庵先生のハイキングコースは、上平館《かみひらやかた》を出でて、通例だれもがする小高野から鞠場《まりば》へかけての胆吹の表参道であります。
 それを、一瓢を携えた道庵先生が、ふらりふらりと上り出すそのいでたちは、草鞋脚絆《わらじきゃはん》の足ごしらえをよくした、平生の旅の通りであります。顔面のある部分に少しずつ貼紙をしていて、ここにいささか異状があるのですが、貼紙というのは、一昨夜上平館の下へ迷い込み、進退|谷《きわ》まって、助けを呼んだあの時の名残《なご》りであります。
 衣服の方の満身の創痍《そうい》は、もう誰かの心づくしで、すっかり癒されている。そこで道庵先生がいい気持で、胆吹のハイキングコースにとりかかったことは珍しいことです。
 江戸を出でて以来、中仙道をここまで百里にわたる旅路ですけれども、この途中ハイキングと名づくべきほどの経験はありませんでした。最も高い地点といえば、碓氷峠《うすいとうげ》なのですが、あれはハイキングのためのハイキングではなく、国道の幹線が、当然上りになっているところを上り来ったまでであり、その他に於て高いところとしては、尾張の名古屋城の天主へ登った程度ぐらいのものでしょう。それを今日は、胆吹山という、れっきとした山岳に向って正真正銘のハイキングの一筋道を行くのだから、少なくともこの道中唯一の異例であります。
 しかし、この先生のハイキングぶりを見ていると、甚《はなは》だ心もとないものがある。第一、道中の際は、あのひょろ高い背で、肩であんまりすさまじくもない風を切り、反身《そりみ》になって、往還の士農工商どもを白眼《はくがん》に見ながら通って来たものですが、山登りにかけては、あんまり自信が無いと見えて、もうそろそろ、体が屈《かが》み、腰が歪《ゆが》み、息ぎれが目に見え出してくる。そこで、先生のハイキングぶりが甚だ怪しいもので、ハイキングというよりは「這《は》いキング」とでもいった方がふさわしいかも知れぬ。現に、もう息を切って、杖を立て、足を休めてしまいました。
 そうすると、右手の松柏《しょうはく》の茂った森の中から、やさしい声が起りました、
「先生」
「何だい」
「ちょっと、こちらへおいでなすって下さい」
「何だね、どうしたんだね」
「ちょっと見て頂戴、まだ、よくわたしにはわかりませんから」
「そうか、では見てあげる」
 路と林との中で、この問答が起りました。
 森の中から先生と呼びかけたのは、しかるべき少女の声で、これに答えたの
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