》もしつらえてあれば、ロウソクもつけられてある。時にとっての好旅籠《こうはたご》――と納まったのでしょう。
 傍らを見ると、黒い焼餅が紙に載せて二つ三つ存在している。マドロスが生命がけで船頭小屋から掠奪して来たもの。そうしてせっかくの愛人に捧げたのをすげ[#「すげ」に傍点]なくされた名残《なご》りのもの。その中の一つは柳田平治の長剣によって切って四段とされたが、まだ二三枚はここに完全に残されたもの――腹がすいてきた、これもまた、時にとっての薬石《やくせき》。田山白雲は、これをとって、むしゃむしゃと食いました。
 こうなってみると、ウスノロめが生命がけで苦心経営した食と住とのすべては、手入らずに白雲のものとなったのです。楚人《そじん》これを作って漢人|啖《くら》う――と白雲がわけもなく納まって……
 やれやれ、世話を焼かせやがったな、しかしまあ今日の一日はなにぶん多事なる一日であったが、必ずしも収納皆無とは言えない。短躯長剣の柳田なにがしという青年を一人拾い、ウスノロと馬鹿娘の駈落者を一対完全に取押えた。
 駈落者といえば、今日はまた駈落の流行《はや》る日でもあったわい。こっちの奴は、ウスノロとたあいもない馬鹿娘の一対だが、鹿又《ししまた》の渡頭で見たのはいささか類を異にしていた。
 ことに、あの羽二重紋服のままに縛られて引き立てられたあいつは、美しい男だったな。無論ウスノロとは比較にならない。どうやら昔物語にある平井権八といったような男っぷりだ。当然、あれが南部の家老の娘なるものを誘拐して立退いた奴だとは想像されるが、さて相手の家老の娘というのはどこへどう納まった。その先途を見届けてやりたいような気持もする。
 どうも四辺《あたり》が静かなものだ。しかし同じ静かさにしても、この時、このところは、少々静かさの調子が違っている。
 奥州へ来て、ところがらだけに、安達《あだち》の一つ家といったような気分だな。もう鬼婆あも出まいが、こうしていると、まだ何か一幕ありそうな気がしてならぬ。
 こういうあたり[#「あたり」に傍点]運のいい晩には、事のついでに、あの七兵衛というへんな老爺《おやじ》が、またひょっこりとそこいらの戸の透間からやって来ないとも限らん。玉蕉女史の離れの一間、忍びの間は芝居だったな。さすがのおれも、ちょっと身の毛がよだったよ。あの伝で瑞巌寺泊りの駒井氏をも驚かしたそうだが、どうだ、七兵衛老爺、今晩は心得たものだから、出るならひとつここへ出てみないか。ここなら四方《あたり》に憚《はばか》る者はない、思う存分貴様のヒュードロドロを見物してやる、出るなら出てみろ。
 というようなそぞろ心に駆られていると、不思議に身の毛がゾッとしてきて、現在誰か一人、背後に廻ったような気分があるが、これは気のせいだ。
 さて、今晩はここに納まり込んで、明日の日程だ――そうそう悠々閑々としてもおられない。三日間を限って、とにかくそれまでには、いったん月ノ浦の無名丸まで立帰らにゃならぬ。限られたる日程だが、実をいうと、おれはまた慾が一つ出て来たのだ。
 それは、恐山へ行って見たいという慾望だ。
 柳田平治を発見してから、なんとなく恐山という名に引かされる。一旦は船へ戻るとしても出直して、北上の竿頭《かんとう》さらに一歩を進めて、陸奥《みちのく》の陸《くが》の果てなる恐山――鬼が出るか、蛇《じゃ》が出るか、そこまで行って見参したいものだな。

         三十一

 変れば変るもので、道庵先生がハイキングをはじめました。
 およそ、ハイキングだの、パッパ、マンマだのということほど、道庵先生に縁の遠いものはないのですが、転向ばやりとでもいうのでしょう、とうとうこの先生がハイキングをやり出したことに於て、容易ならぬ非常時を想いやることができるというものでしょう。
 ところは北上川の沿岸でもなく、恐山の麓でもありません、近江の国の琵琶の湖畔の胆吹山《いぶきやま》に向って、道庵先生がハイキングを試み出しました。
[#ここから1字下げ]
「コノ日、天気晴朗ニシテ、空ニ一点ノ雲無ク、乃《すなは》チ一瓢ヲ携ヘテ柴門《さいもん》ヲ出ヅ……」
[#ここで字下げ終わり]
 明治のある時代に於て、小学校の課目の中に「記事文」というものがありました。その記事文に、一定の型があって、たとえば「車」という課題の下には、
[#ここから1字下げ]
「車ハ木ト金ニテ作リ、荷ヲ運ブニ用フルモノナリ」
[#ここで字下げ終わり]
といったような型でしたが、ある時、或る学校で「楠木正成」という課題を出しました。大楠公《だいなんこう》のことに就いては、修身課に於ても、読本課に於ても、充分の予備知識が与えてあるのだから、先生もその点は安心して、右の課題を出したのですが、一人の生徒の答案に
前へ 次へ
全138ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング