スが、急に哀願の体《てい》で、
「田山先生、ワタクシ、悪イトコロアヤマルデス、縄、解イテ下サイ」
 それを耳にも入れず田山白雲は、柳田平治をさし招いて言いました、
「柳田君――ではこれからを君に引渡すから頼みますよ」
「承知しました」
「マドロス」
と、白雲が改めてマドロスを呼びかけると、
「ハイ」
 神妙な返答です。
「貴様を、これからこの人に託して、月ノ浦の駒井氏の元船まで送り届けるのだ、じたばたしないでおとなしく引かれて行けよ」
「御免、御免」
 マドロスは、また哀号の声を高くして、
「御免、船ヘ戻ルコト、オ許シ下サイ、船ヘ戻レバ殺サレルデス」
「柳田君、かまわず引き立てて行ってくれ給え、もしジタバタした時は、今の鶴見流でやっつけてかまわない」
「御免、御免」
「萌さん――」
 兵部の娘を白雲は呼びかけて、そうして、
「あなたも、この人に――柳田さんという方だ――この方に送られて、一緒に駒井先生の許《もと》へお帰りなさい。途中、逃げようとしても、もういけませんぞ。見給え、柳田君の差しているあの長い刀を、あれは抜ける刀なのだぞ」

         二十九

 それから、田山白雲は、マドロスと兵部の娘を引据えて置いて、また改めて、柳田平治に向って次の如く言いました、
「柳田君、では、このまま囚人《めしうど》を君に頼みますぞ、これからいったん追波《おっぱ》の本流へ出て、鹿又《ししまた》から北上の本流を石巻まで舟でやってくれ給え、舟は本流へ出るまでは、今のあれでよろしい、それからは、最前仕立てて置いたあれで石巻までやってくれ給え、この辺はすでに仙台領だから、あの舟で行きさえすれば旅券がなくても大丈夫だ。なお、念のために仙台藩の通券を一枚君に貸して上げる、これを持って舟で下ってくれ給え――絵図面をあげる、この絵図面によって下れば更に間違いなし」
と言いかけた時に、今まで哀号をしていたマドロスが、また急に変な声を出して、
「田山先生、ワタシノ命、助ケテ下サイ、ワタシ、オトナシク月ノ浦マデ、舟漕グデス、ワタクシノ命、アチラデ助ケテ下サイ、コレカラ舟漕イデ上ゲルデス」
と言いました。その心細い声を聞くと、田山白雲がふき出して、
「なるほど、舟のことはこいつが本職だった、本職の手を縛って置いて、柳田君に廻航の心配をさせるのも愚かな話だった、こいつを一番利用して、ここまでやって来た通りをあとへ戻させればいいのだ」
と言って、マドロスの方へ向き直って、物々しく白雲が言って聞かせることには、
「よし、では、ともかく貴様の縄だけは解いてやるから、舟を漕いでかえれ、先方へ着いての上で駒井氏の裁断だ、拙者は許すとも許さんとも言えん――とにかく、舟を漕ぐ間は縄をゆるめてやる――ゆるめてはやるが、こっちを甘く見るときかんぞ。いいか、途中で隙を見て、海へ飛び込んで逃げ出そうなどとしても駄目だぞ。いいか、この柳田君はな、なりかたちこそ小さいが、恐《こわ》いものを持っているぞ、これ見ろ、この長い刀をよく見ろ、伊達に差しているのではないぞ、抜けるのだぞ、抜けば斬るのだぞ、貴様のようなでぶ[#「でぶ」に傍点]といえども、芋を切るように真二つにこの刀で人が斬れるのだぞ、この人のなりかたちが小さいからって呑んでかかっちゃいかんぞよ。もし貴様が途中、穏かならぬ気振《けぶり》でもしようものなら、その瞬間に、そのでぶ[#「でぶ」に傍点]を二つに斬られてしまうのだ、おどかしではない、事実を言うのだ、よく見て置かっしゃい、あの長いのを――」
 田山白雲は、改めて柳田平治を、裏返し表返してマドロスに紹介して後、
「柳田君、後学のためだ、一つこの男に型を見せてやってくれまいか」
「よろしうござる」
 柳田平治は一方の板の間へしさったかと思うと、そこで電光石火の如く、居合を三本抜いて見せて、四本目に、あたりをちょっと見廻したが、そこに落ち散った黒い焼餅の一つを取ると、縛られたマドロスの頭の上に置き、二三歩踏みしさって、颯《さっ》と一刀を抜いたと見ると、
「ワアッ!」
 マドロスは目がくらんで絶叫したが、マドロスの膝の前に二つになって落ちたのは、マドロスの自身の首ではなくて、今の焼餅でありました。
 そうすると、いつしか刀を鞘《さや》に納めていた柳田は、二つになって落ちた焼餅をまた拾い上げてマドロスの頭へ積み重ねたから、マドロスはとてもいい面《かお》をしませんでした。
 次の一本が電光石火、マドロスの頭で焼餅が今度は四つになって落ちたけれども、マドロスの赤い髪の毛は一筋だも傷つかないのです。

         三十

 十二分にマドロスの度胆を抜いてから、この厄介な駈落者を、柳田平治に託して送り出して置いて、田山白雲はひとり、この石小屋を占領しました。
 つまり、ここに炬燵《こたつ
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