のであります。
 ただ予期しなかったことは、ここへ、同行ともつかず、従者ともつかず、お弟子ともつかない、長剣|短躯《たんく》の青年を一枚加え得たというだけのもので、いつしかこの漢子《かんし》は、「先生」と白雲を呼びかけるほどに熟してしまっている。
 白雲が右のバッテイラ型と称した小舟の傍で言いました、
「ねえ、もう袋の鼠だよ、こっちのものだよ、そう思って聞いて見給え、あの問題の楽器はイカモノだな、笛でなし、鼓でなし、尺八でなし、琴でもなし、三味線でもなし、何か毛唐のイカモノの響きだ。本来、あのマドロスという奴が、ウスノロに出来てるんだ、眼色毛色の変った奴に、ドコまで道行ができるものか。先生、一時の安きをたのんで、ああして太平楽にイカモノを鳴らかして楽しんでいる知恵なしを見給え、自分たちはいい気分で人知れず楽しんでいるつもりだろうが、木の音、草の音を忍ぶ駈落者が、楽器いじりとは呆《あき》れたものではないか、ウスノロはどこまでもウスノロだよ」
「鳥も鳴かずば撃たれまい――というわけですね」
「そうだ、そうだ」
 白雲は、柳田平治が存外、洒落《しゃれ》た言葉を知っているのに、我が意を得たりとばかりです。

         二十六

 そういうこととは知らず、石小屋の中では、白雲のいわゆるイカモノの音楽が、奏する人をいよいよ有頂天《うちょうてん》にならせると共に、さしもの聞き手を、ようやく陶酔と恍惚《こうこつ》の境に入れようこと不思議と言わんばかりです。
 それが、イカモノであろうとも、なかろうとも、自己の演出する芸術が、張り切れるほどの相手方の反感を和《やわ》らげ得たのみならず、進んでこの程度にまでこっちのものに引き入れた自分の芸術の勝利に、マドロスがいよいよのぼせ上らざるを得ませんでした。
 そこで、ここを先途《せんど》と、引換え立替え、レコードを取換え、針をさし換える隙《ひま》がもどかしいように、西洋から、南洋から、支那朝鮮の音楽にまで、自分の持てる芸術の総ざらいをはじめて終り、やがて息をもつかせず、
「オ嬢サン、コレカラ日本ノモノヤルデス、マズ南ノ方カラヤリマショ、八重山ヲヤリマショ」
「八重山って何です」
「八重山ハ薩摩ノ国ノ南ノ方ニアル島デス、ソノ島ノ娘、タイヘン声ヨイデス、世界デモ一番デス」
と、マドロスが風琴を膝へ置いて答えました。
「え?」
と女が少し聞き耳を立て、
「何ですって、世界で一番? 言うことが大きいわ」
「ウソデナイデス、タナベ先生モホメマシタ、八重山ノ唄ト踊リ、素晴ラシイモノデス、ワタシ、日本デハアンナスバラシイモノ聞イタコトナイデス、ソレヲ一ツ、ココデ真似テ見ルデス」
「まあ、ちょっとお待ちなさい、マドロスさんの言うことは大きいからね、日本の国の薩摩の国の中に世界一番なんて、それは掛値があるんでしょうけれど、かりに割引して聞いても、そんなに素晴らしい唄だの踊りだのが、日本の中にあるんですか、そのことをもう少し説明してから、唄って聞かせて頂戴」
「八重山ノ娘サンタチノ声ハ五町モ六町モトオルデス、ソウシテ声ガヨク練レテイルデス、ワタシ聞イタ、世界ニモ珍シイデス、日本ノ国ニアンナトコロハ二ツトナイデス、ワタシ、一生懸命ニ三日習イマシタ、ユンタ、ジラバヲヤッテオ聞カセスルデス」
「では、ともかくやってみて下さいな」
「八重山ノユンタ、ジラバ……」
 そこで、またマドロスが実演にかかりました。
 果して八重山という日本の国の辺鄙《へんぴ》の島の中に、そんな音楽の天国があるものか、マドロスの受売りだけでは信じられないが、女はその予備宣伝に相当引きつけられているらしい。
 そこで声高《こわだか》にマドロスが手風琴をあやなしながら唄い出したが、歌句は一向何だかわからない。本来、今までのマドロス芸術について、歌詞そのものは一向にわからないで、そのメロデーについて感心して聴いていたのが、これから日本のものを相はじめますということになってみると、その八重山とか、八重山節とかいうものが、歌詞はむろん相当にわかって、一層の興味があるだろうと予想したが、わからない。本来演奏者自身がわかってやっているのではないから、これは詮索《せんさく》しても駄目――ただ、盛んに唄い出すマドロスの咽喉《のど》を見て、八重山の女の世界的だという咽喉を想像するよりほかはないのですが、想像してみたところで、以前わからない異国情調を聞かされたほどの感興は、どうしても起らないらしい。

         二十七

 だが、とにもかくにも、このイカモノ音楽師は、世界的だという八重山節のコッピーを取って見せてしまうと、またもや息をつく遑《いとま》もなく、
「今度ハ、ガシャガシャ節ヲオ聞キニ入レルデス」
「まあ、待って頂戴、マドロスさん、今のその八重山節は、素
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