一点の火光が射して来るのです。
それにつれて、同じところから異様なる鳴り物の音が、ようやく鮮かに流れて来るのを、柳田がまた小耳を傾けて、
「何ですか、笛でありますか」
「いや、笛ではない」
「鼓ですか」
「いや、鼓でもない」
「三味ですか」
「そうでもないようだ、胡弓のような響きがする」
「暢気《のんき》な奴ですね、こんな原っぱの一つ家に、鳴り物を鳴らして楽しむなんて」
「おかしいぞ」
流れて来る音は聞き留めたが、楽器そのものが何であるかは、はっきりと受取れないので、
「狐狸の仕業かな」
と柳田平治が、長剣をちょっと撫でてみました。
「まあ――もう少し行ってみよう」
「御用心なさい、そこはもう沼つづきですから、先生」
「なるほど、水がここまで浸入して来ている、ここを一廻りせんと、あの森へ出られない」
「橋はありませんか」
「ないね」
「廻りましょう、僕が先に立って瀬ぶみをいたします」
「気をつけて行き給えよ」
二人は沼を隔てて、森と、火影《ほかげ》と、音楽とを、眼の前にあざやかに受取りながら、地の利を失ったために、その水の入江と、沼の半分を廻らなければならなくなりました。
蘆《あし》と、菱《ひし》とを分けて、水に沿うてめぐり来《きた》ってみると、やや暫くして、先に立った柳田平治が突然声を揚げました。
「先生、舟がありましたぜ、舟が」
「なに、舟が」
柳田平治が立っている入江のある地点に、朦朧《もうろう》として小舟が浮き捨てられてある。
「それは、いいあんばいだ、渡りに舟」
一議に及ばず、二人はその舟を分捕って飛び乗り、この入江と沼とを押切ろうとして、ふたり船べりへ寄って見て、田山白雲が、はじめていぶかしげに、
「おや、この舟はおかしいぞ」
「どうしたのです、先生」
「見給え、世間普通の舟ではない」
「そうですね」
二人は乗ることを先にして、舟の形を見ることを後にしましたが、白雲が、
「占めた!」
と叫んで、
「君、見給え、この舟は――これは日本の猪牙《ちょき》ではない、形をよく見給え、西洋のバッテイラ型という舟だ、間違いなく、駒井氏の無名丸から外して逃げ出して来たその舟なのだ、いいかね、君に話した毛唐のマドロスというウスノロが、少し精神に異状のある娘を誘拐《ゆうかい》して連れ出したのがこの舟だ――ここに乗捨てられてある以上は、もう論議無用――あの鳴り物が物を言う。君、櫓《ろ》が押せるかね、押せるなら、ひとつこれで乗切ってくれ給え、あの鳴り物の音をたよりに――待ち給え、この舟がここに乗捨てられてある以上、ここから沼沿いに路があるだろう、その間道をひとつたずねて見給え」
二十五
そもそも、田山白雲のこのたびの北上の目的というものは、一石二鳥をも三鳥をも兼ねたものでありました。
その一石は、いま現にほぼ証跡をつきとめ得たらしいところのマドロスと、兵部の娘を取押えんがためでありました。目下、松島湾の月ノ浦に碇泊しているところの駒井甚三郎創案建造の蒸気船、無名丸から脱走して来たところの駈落者《かけおちもの》なのであります。マドロスは生国の知れぬ外国からの漂着者であり、兵部の娘は素姓《すじょう》正しいものですけれども、いささか精神に異常を呈し、肉体に不検束を持っている女であります。この二人が最近、無名丸から脱走したのを取押えんことも、田山白雲の北上の一つの目的でありましたが、他のもう一つは、仙台城内の秘宝を覘《ねら》って、九分九厘のところで失敗した裏宿の七兵衛という、足のはやい不思議な怪賊の行方をたずねんがためでありました。
それから、もう一つは、本業たる画師としての画嚢《がのう》を満たさんがために、未《いま》だ見ざる名山大川に触れてみようというのと、持って生れた漂泊性を飽満せしめようとの本能もありました。
そうして、ゆくりなく、この渡頭に立って見ると、たずねるところのマドロスが、遠眼鏡の視野の中に完全に落ち来ったものですから、いずれにしても、この向う岸を距《へだた》ること程遠からぬ地点に潜在しているのだ。だが、茫漠たる地形であってみると、これは白昼に草の根を分け探すよりも、むしろ夜間を選んだ方がいい、というのは、火食を知って以来、人類の生活には火が附いて廻る。内部に向って食物を送るためにも、外部よりして体温を摂取するためにも、光を起して自ら明らかにし、他の暗黒を救うためにも、火は人生の必須であって、人生すなわち火なりという哲学も成り立つ。そこで、火を認め得れば必ず人があり、人のあるところには必ず火がある。そうして、火というものは、昼間に於てよりは、夜間に於てその存在をいっそう明瞭にする。
こういう見地からして、田山白雲は特に夜を選んで駈落者の所在を探索に、ここへこうしてやって来たというわけな
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