ながら言うことには、騒ぐな、騒ぐな、どこまで逃げるということがあるものか、この一国のうちならば、海であろうと、川であろうと、ゆっくり探すことができるのだ、だが、そのうちに浮いて出て来るから、ともかくもひとまずこの船をさし止めろ、と言っているうちに、水面の一個所、水の色が紅くなったところがある、あそこへ船を差廻してみよと、鶴見から言われているうちに、そこへぽっかりと屍体が一つ浮いて出た、それを引き上げて見ると、右の武功者が、高股《たかもも》を切り落されて浮び出して来たのだった」
「やりましたね、鶴見先生」
「その男が水へ飛び込むと見て、鶴見が斬って刀を鞘《さや》に納めたのだが、その抜く手も、鞘に納めるところをも、誰も見たものはなかったそうだ……」
「そうでしょう、林崎甚助先生などにもさような逸話はありますね、私も師匠から承りました」
柳田平治が、つづいて何か相当の武術の応酬を試みようとしていた時分に、さきほどからむらむらしていた雲が月を隠してしまい、地上がにわかに暗くなりました。
二十三
月は隠れたけれども、本来は月の夜なのですから、天地は暗いといっても、闇の夜ではありません。
「月が隠れたね」
「雲が出てまいりました」
二人の心づかいは、ちょっと天上に向って転向しましたけれども、そうかといって、その雲行きも天候の激変を暗示するほどの危険性はないが、今までのように皎々《こうこう》たる月光が、雲を破って現われることは、ちょっと覚束《おぼつか》なくなりました。
「しかし、暗い方がまたかえってよろしい」
と田山白雲は、さのみ月光に執着を持っておりませんでした。それは月光そのものに浸染せんがためにうらぶれ出でたのではなく、かくうらぶれ出でたに就いては、別に何かの目的があってうらぶれ出でたところへ、偶然にもその景物として月が出ていてくれたのだから、月が姿を隠しても必ずしも自分の目的に外《はず》れるということはなく、かえってそこにはまた何かの利便をでも見出したかのように、月もよし、闇も更によし、というような気分で、最初の通り四方《あたり》の山川草木を通して、平原の視野の限りに油断なき首筋を動かしているのです。
そうすると、柳田平治も語り出でんとする物語をさし置いて、同じような姿勢を以て四方の視野を監視の体《てい》です。二人の会話は途絶えました。
会話そのものもまた、月の光と同じく偶然の景物であって、二人は会談を為《な》さんがためにここにうらぶれて来たのではなく、何物をか求めんがためにうらぶれ来《きた》って、そうして偶然のゆかりで会談の緒《いとぐち》が切出されたまでのことですから、それが都合上、中断されようとも、継続されようとも、更に差支えはないのです。
そうしているうちに、田山白雲がまず口を切りました、
「君、あそこの森蔭に、一点の火が見えるではないか」
「ええ、何か、鳴り物の音が聞えますな」
二人の声は、ほとんど※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]啄《そったく》同時のような調子でありました。
白雲が、その一点の火というのを認めたのが早かったか、柳田が、風に伝うて来る有るかなきかの鳴り物の音というのを耳にとめたのが早かったか、それはわからないでしょう。一方の眼と、一方の耳との正確さをもって一応たしかめるために、二人は暫く息を凝《こら》しました。
「たしかです、先生、たしかに火影《ほかげ》が見えます」
白雲が最初に認めた火の光がいったん明滅したらしいのを、柳田が再び確認し得たらしく保証すると共に、白雲が、
「なるほど、なるほど、風に流れてかすかに物の音が響いて来るよ」
自分は眼に於て早く、柳田は耳に於て一歩を先んじていたらしい認識が、ここで両々相保証するの立場となりました。
「では、とりあえず、あれを目的《めあて》として少し急いでみようではないか」
と白雲がまず唱えて、柳田がそれに従いました。そこで少し二人は歩行《あゆみ》を早めて、火と音との遥かなる一角に向って歩み出しましたが、何をいうにも、白雲は大男であり、柳田は小男ですから、コンパスの相違が少々ある。
白雲は柳田に調子を合わせてやるために、多少ともその歩調をおろさざるを得ませんでした。
かくて行くうちに、ふと前に白い鏡のようなものの大きな展開を見ました。
「やあ、池ですか」
「沼だ――入江かも知れない」
このまま進めば、必ずその沼に突入する。
二十四
白雲がまず眼を以て認め得たところのものも誤りなく、柳田が耳を以て捉《とら》え得たところのものにも間違いがなかったことは、二人が進み行くほどに、ようやく明確に証拠立てられました。
突当りに沼があって、その向うに小高い岸があって、その一方に森があって、その森蔭から右の
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