出して来ました。投げられたといっても、致命的に投げられたのではない。腕に覚えのある捕方であってみれば、受身の修練ぐらいは相当に積んでいなければならない。

         百九十九

 果して、いったん投げられた捕方が、暫くあって徐々《そろそろ》と身を起したのを見ると、別段、急所を当てられているとは見えません。右の手に、ちらりと十手の光を見せて、それで暫く地上に支えると共に、半身を起して、そうして、隼《はやぶさ》のように眼をかがやかして、こちらを見込んだその気合を以て見ると、投げ方よりも寧《むし》ろ投げられた方に心得がある。
 そこで半身を沈めたなりで、闇仕合のような形のままで、ジリジリとこちらへ向って圧迫的に盛り返して来ました。
「御用!」
「何の御用だ!」
 思うに、始終を見きわめて置いて、後ろの天水桶から飛び出して来た瞬間には、もう手軽くこっちのものとたかを括《くく》っていたのが、案外にも、相手が身をかわしたものだから、そのはずみを食って、あちらへけし[#「けし」に傍点]飛んだばかりで、米友としては、抵抗したわけでも、取って投げたわけでもないらしい。
 だが、相手が相当の曲者だと見て取った捕方は、陣容を立て直して取詰めて来る気合が、ありありとわかる。
「野郎!」
 時分はよしと、真正面から十手をかざして打込んで来たが、
「カツン」
 手ごたえはあったが、
「あっ!」
 その十手が高く中空を舞って飛び上るのを見ると共に、人と人とが地上でふたたび巴《ともえ》に引組んで転がるのを認めました。
「手向いするか」
 二つの身体《からだ》は再びもつれ合ったが、それも長いことではない、今度は米友の方が、鎌鼬《かまいたち》のように後ろへ走り出しました。
 逃げたのです――だが、それを捕手が追わない。地上に倒れて起きない。
「うむ――」
 それは、残念無念、取逃がしたといううめきだかどうだかわからないが、現在、曲者と見かけた奴に後ろへ走られて、それを透かさず追いかけることができないのだから、何か身体に相当の故障が起きたものと見てよろしい。唯一の武器としての十手は、その押しかかった瞬間にはね飛ばされてしまったことは確実で、そうして素手で向った相手の曲者に、すり抜けられてしまったことも現実の通りです。
 一方、宇治山田の米友は、身にふりかかる火の子を払うつもりで打払ったが、その払い方が手練の払い方でしたから、先方唯一の武器を中天遥かにハネ飛ばしてしまったことは、この男としては相当の技倆です。
 ただ、その次の瞬間に、劇《はげ》しき一撃を食わせることもなく、無二無三に後退したのは、これは、たとえ無茶に打ってかかられたとは言い条、この相手は確かにお上役人としての役目の職権をもって来たものである――という見込みがついたから、抵抗しては悪いという遠慮で、そうして火の子を払うと共に、まず相手を痛めるよりは、身を全うするのが賢明だとさとったものでしょう。
 ところがこうして、無雑作《むぞうさ》にすり抜けて後ろに走った米友が、ある程度でグッと詰って、それ以上は走れない。彼の跛足《びっこ》の足の一方に、早くも捕縄が蛇のように捲きつけられていたからです。

         二百

 こういう場合に於て、米友としては、いつも出様が悪いのです。本来ならば、身に覚えなき疑いをかけられた場合に、先方が職権として立向ったものと見込みがついたならば、一応は素直に捕われてしまいさえすればいいのですが、この男にはそれができない。
 その素直になりきれない事情にも、また諒察《りょうさつ》すべきものがあるにはある。いったい、この男は、自分が世間から諒解されないことに慣れているが、誤解されることにも慣れている。自分は常に曲解されつつ生きているのだというような観念が、習い性となっているのです。弁解しても駄目だ! 人は自分の言うことを、単に正当として聞いてくれないのみではない、頭から自分を不正当なものとしてかかっている、だから捕まれば最後だ! という観念がいつも離れたことはないのです。
 それも、この男としては無理もないことで、例えば、ほとんどその発端の時、間《あい》の山《やま》でのムク犬擁護のための乱闘の後でもそうです。相当逃げは逃げたが、とうとう捕まって、そうしてついに窃盗の罪を被《かぶ》せられてしまっている。単に暴力行為――暴力とは言えない、あくまで正当防衛の正力だとは自分で信じているけれども、仮りにも人を傷つけたという理由の下に、相当のお咎《とが》めを蒙《こうむ》る分には、これまた止むを得ないかも知れないと思っているが、人の物を盗るなんぞということは、以ての外だ、そのぬれぎぬを着せられたために処刑を受くるのでは、死んでも死にきれない。そこで、極力陳弁を試みたけれども、ついに
前へ 次へ
全138ページ中137ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング