にも読み得らるるようにしてあったものを、特に持卸して背負い出したというのがわからない。こんなものを盗んだって仕方がねえじゃねえか。また多くの人に見られるためなら、わざわざこんな行燈背負いのように背負わせて歩かせずとも、あのままにして高く揚げて置いた方が、効果が多い。
 こうして見ると、高札が人間を押しつぶしている。通りかかったところへ、ももんがあ[#「ももんがあ」に傍点]かなんぞのように不意に高札が飛びかかって来て、押伏せたものだから、人間が面喰って、押伏せられたなりで窒息している――とも受取れる。
 なんにしても米友は、ただ単に、これを判じ物の観念をもって驚いているのではない。人間一人がここに斬られて死んでいるという現実の非常時に当面し、悲憤も、驚惑も、しているのですが、それにしても、こうなってみて、またいささか、手ごたえの変なところがないではない。第一、人が斬られている、殺されている! という先入観念からが、なんとなく拍子抜けになってきて、斬られているというが、血が流れていやしねえではないか。ことによると、こいつは行倒れだ、行燈背負いの日傭取りの貧乏人が、栄養不良のために、ついに路傍に行倒れにのめって、それっきりになってしまった、それではないか。
 とにかく、面《つら》をあらためてくれよう、面を――どっちにしたって、気の毒なものに変りはないが、驚くなら驚くように、事をあらためた上で驚いた方がいい。
「おい、お前、こっちを向きな」
 右に持っている杖を左に持替えて、そうして米友は、その行倒れの襟首《えりくび》をとって引卸して見ようと思って、その手ごたえに、我ながら度胆を抜かれた形で、
「おやおや――こいつぁ変だ、こいつぁ、こいつぁ、人間じゃねえや、おっと、人形だ、人形だ、人形が高札を背負って行倒れになってやがらあ!」

         百九十八

 斬られた人間の死骸でもなければ、栄養不良の行路病死人でもない、土で形をこしらえた、人間の模造品でありました。
 これを感得した米友が、自分ながら力負けがして、かなり手荒く、その模造人間の死骸の襟首をとって引起して見ると、
「馬鹿にしてやがらあ」
 それは、紛れもなく髭《ひげ》むじゃの鍾馗様《しょうきさま》の人形です。鍾馗様の人形とわかったけれども、その鍾馗様の人形が、こうしてこんなところへ何のために誰が捨てたのか、それはわからない。運搬の途中、過《あやま》って取落したにしては念が入り過ぎている。長浜の土地は山車《だし》の名所だから、それを知っているものは、これも山車の人形の一つで、相当の名工が腕を振《ふる》ったものであろうとの想像はつくけれど、山車の人形というものは、守留《もりどめ》の上に高く掲揚せらるべきもので、土の上へ投げ捨てて置かるべきものではない。まして、高札風情に押し潰《つぶ》されて、起きも上れないような鍾馗様では、鬼に対しても睨《にら》みが利かないのだ。まさに誰かの悪戯《いたずら》だ、悪戯にしても念が入り過ぎている悪戯で、笑いごとの程度では納まらない。だから米友も、
「性質《たち》のよくねえいたずらだ」
 ぼうぜんとして、その鍾馗様を睨めたまま、為さん様を知りませんでした。
 その時、不意に米友の後ろから風を切って、
「御用!」
「捕《と》った!」
 黒旋風《こくせんぷう》のようなものが、後ろの浜屋の天水桶の蔭から捲き起ったと見ると、米友の背後から、さながら鎌鼬《かまいたち》のように飛びついたのです。
「何だ、何をしやがる」
 そこで、クルクルと二つのものが巴《ともえ》に廻ったかと見ると、その一つは忽《たちま》ち遥か彼方《かなた》の街頭にもんどり打って転び出したが、起き上ることができない。
 それは、天水桶の蔭から飛び出した鎌鼬で、こなたの米友が、
「何だい、何をしやがんだい、不意に飛び出して、人をつかまえようたって、そうはいかねえや、用があるなら行儀作法で来な、おいらは、人につかまるような悪い人間じゃあねえんだぞ」
 米友としては全く予想外の乱暴に出逢ったものですが、飛びついた方は理由なしにかかったのではない。「御用!」「捕った!」の合図でもわかる通り、これはたしかに職分を以て、この町の民の安寧のために、特に不穏な時節柄を警戒すべく巡回の役向のお手先である。今、密行中に、路上にうずくまる挙動不審の男を、相当以前から物蔭にかくれて動静をうかがい、いよいよ挙動不審を確めたから、そこで、旋風の如く躍《おど》りかかって、引捕えるべく飛びかかったものに相違ないが、それを曲者にいなされて、捕えらるべきものがここに踏みとどまって、捕うべき者が遥か彼方へ投げられて、そうして起きも上れない体でした。
 暫くこの形のままで静かでしたけれども、投げられた相手が、暫くして、そろそろと動き
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