た町の大路の真中に、人間が一人、まさに斬られて倒されている。
百九十六
だから、言わないことじゃあない。こういうことがあってはならないために、こういうことをあらざらしめんがために、このおいらという人間が、よる夜中、こうしてところを嫌わずうろついているのだ。酔興で、昨日の晩も、今日の晩も、こうして眠い眼をこすりながら、ほうつき歩いているというわけじゃあねえんだぞ。
人間と名のつくものの一人でも、地獄へは落したくねえんだ。罪のある奴に、このうえ罪を重ねさせてやりたくねえければこそ、このおれはこうして、あてどもなく飛び歩いているんだぞ。
人の心も知らねえで、こいつがまた、こりゃ、どうしたというもんだ。口惜《くや》しいぞ、残念だぞ、もう一足早かりせば、ちぇッ、この足め!
米友は、ついに自らの足を憎んで、その足をもって、したたかに大地へ打ちつけました。この男、得意の地団駄です。得意のといっても、誰しも好んで地団駄を踏むものはない。地団駄というものは、残念無念の表情のやり場がなくて、大地に人間がわれと我が足をぶっつけて、遣悶焦燥《けんもんしょうそう》する時に起る挙動なのです――内に燃ゆる義憤があって、その義憤が適当なはけ場を見出し得られないためしの多い米友は、常に地団駄を踏んで、わが力の足らざることを、大地に向って強訴弾劾《ごうそだんがい》するのならわしを持っている。
今やまた、せっかくの心づくしが水の泡《あわ》となって目前に現出している。よって、米友が歯噛みをして大地を踏み鳴らしている地点というものが、ちょうど、これが湖畔の町に於ても目抜きの巷《ちまた》でありました。
一方に、当地第一等の富豪、下津伝平の屋敷の堀が広々とめぐらされている。その向うにはかなり広大な絹取引の会所の棟《むね》が横たわっている。大商店が倉を並べている。大きな旅籠《はたご》の中に、最もすぐれた浜屋というのが、塗りごめの戸袋壁に、夜目にもしるきほどの屋号を黒い塗壁に白く抜いている。この浜屋――というのが、以前から問題の、この中に覆面の怪物が二個いて、その間へ頬かむりのやくざ者がはさまった、前の晩の出来事の、その陣屋まがいの、だだっ広い構えなのであります。
ここまで来て、眼前に横たわっているのが人間の死骸であることを、夜目にも紛れなく認めた瞬間に、かくばかり激憤した米友も、やがてやや血気を静めて、そうして斬られている当人の果してなにものであるかの検討にとりかかりました。
二足三足と近づいて見ると、斬られた奴はうつぶしに倒れている。そうして、背中には何物かを背負っている。うつぶしに倒れているから、一見しただけでは人相そのものはわからない。その背中に背負っているものは――背負っているというよりは、背負わせられているといった方がよろしい、背負わせられているというよりは、むしろ背中へ結びつけられた、という変な取合せで背中に背負わせられているのは、よく高札場《こうさつば》にあるあの立札なのであります。高大な立札を背負わせられたまま、前へのっけに突伏している形ですから、また見ようによれば、人間が高札に押し潰《つぶ》されているようなもので、人間そのものを検視する先に、「さあ、もう一ぺん読め!」と高札をつきつけられているような形です。
百九十七
その時、米友の頭へピンと来たのは、この高札がまた只《ただ》ものではない、それはもとより、人間一匹を押しつぶして、息の根を止めているくらいの高札だから、只の高札でないことはわかっているが、この只者でない高札にもまた、一応見覚えがある! と米友の頭に響かざるを得なかったのは、これも先に、生活品の買出しに長浜へ来た時に、札場で見たあの高札――念のために、その時うろ読みに読んだ文章を再現してみると、次のようなものでありました。
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「定
何事によらず、よろしからざることに、百姓大勢申し合はせ候を、とたう[#「とたう」に傍点]ととなへ、とたうして、しひて願ひ事企てるを、がうそ[#「がうそ」に傍点]と言ひ、あるひは、申し合はせ、村方立退候を、てうさん[#「てうさん」に傍点]と申す、他町村にかぎらず、早々其筋の役所に申し出づべし、御褒美として、
とたうの訴人 銀百枚
がうその訴人 同断
てうさんの訴人 同断
右之通り下され、その品により帯刀苗字も御免あるべき間、たとひ一旦同類になるとも、発言いたし候ものの名前申し出づるにおいては、その科《とが》をゆるされ、御褒美下さるべし……」
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云々《うんぬん》の心覚えを、米友が思い返して、
「うむ、あの、あれだ、あれだ」
と合点《がてん》したが、合点のゆかないのは、あの時、あの高札場高く揚げて、何人
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