った女だ。米友がたずね求めんとする殺気はそれではない。彼は、お銀様以前に、セント・エルモの火に送られて山を出た、その黒い覆面の怪物を抑えようとして下りて来たのです。彼をしてもうこれ以上に犬を斬らせまいとして、その慈悲心から、山を下って、そうして湖畔の町を、今日も、昨日の晩も、あさり歩いている。
江戸の本所の弥勒寺長屋《みろくじながや》に、同じ釜の飯を食って以来、いや、もっと早く言えば、甲府城下の如法闇夜の時以来、あの覆面の怪物の夜な夜なの出没の幻怪ぶりを満喫していること、この男の如きはない。自らもその幻怪の誘惑に堪えられなかったが、それがまぼろしの出没である間はよろしい。右の怪物が、じっとして立ち止まった時に、罪もない人間の血の幾斗幾升が、空しく地中に吸い込まれ、その肉体がうつろにされて、地上に累々たる酸鼻には堪えられたものでない。せめて、この、おとなしい湖畔の町だけには、もはや再び、あの甲府城下、弥勒寺長屋時代の陰惨な絵巻を繰りひろげて見せたくはないものだ。
もう、たいがいにして、あの刀を鞘《さや》に納めさせたいものだ。そうするのが、彼の後生《ごしょう》の幾分でもあるし、第一、この罪も報いもない北国街道筋の古い町の、何も知らない民衆が気の毒だ。
ナニ、人は斬られないが、犬が斬られた? 人間ならばたまらないが、犬ならばいくら斬られてもよろしいという理窟があるか。
犬を斬る刃《やいば》は、人間を斬る刃なのだ。斬るべき人間にでくわさなかったから、やむなく犬を斬ったのだ。その惨虐の程度に於て、あえて相違があるものか。
百九十五
わが親愛なる宇治山田の米友は、こういう殊勝な慈悲心をいだいて長浜の町の夜を、ひとり物色して歩いているということは、誰も知るまい。
青嵐のいうが如く、この静かな町の中にも、富豪の圧制を憎む細民がいるかいないか。検地の代官を呪う一味徒党の片われがいるかいないか。また、水争いの公事《くじ》を、この辺まで持込んで、待機の構えでいる附近の農民が隠れているかいないか。或いは尊王攘夷《そんのうじょうい》が、海道の主流を外れたこの辺の商業地の間にまで浸漸して来ているかいないか。そんなことは米友としては知りもしないし、知ろうともするところではない。
彼としては、もはや、人間にせよ、畜類にせよ、およそ生きとし生けるものの、その一つをでさえも、これより以上に刃に衂《ちぬ》らせたくはないのだ。
さりとて、夜の町を行くのに、ことさらに人の目に立つようにして歩く馬鹿はない。その点において、米友も、弥勒寺長屋以来、相当に心得たもので、その俊敏な小躯《しょうく》を、或いは軒の下、天水桶の蔭、辻の向う前、ひらりひらりと泳いで渡る机竜之助の如く、戸の透間から幻となって立ち出づる妖術(?)こそ知らないが、米友としても、天性の達人である、心得て歩きさえすれば、滅多なものに尻尾をつかまれるような歩き方はしない。それにしても近日の動静に徴して、町に於ても相当に警戒の試みられてあるべき晩なのに、存外穏か過ぎるのは、本来、商業地としての当地は、警戒ということが深ければ深いほど、空騒ぎをしない。内に於ては、戸を深く鎖し、役人、町内の自警団にしてからが、徒《いたず》らに手ぐすね引いて、目に見えない殺気そのものよりは、目に見える警戒ぶりに於て、かえって人気を聳動《しょうどう》せしめるような、心なき陣立てはしない。そこはさすがにその昔、太閤秀吉が鎮《しず》めて置いた土地柄とでもいうものか。ただ、時々の夜廻りは、水も洩らさぬように粛々と練って行く。それも極めて規則的であり、時間に於ても、ほとんど一定の節度がある。それを程よく、やり過しさえすれば、無人の境を歩くと同様な静けさの中を、米友は飛び歩いている。
彼は、前の晩に犬の斬られたという大通寺の門前のあたりも、それと知らずして通り過しました。町から町、辻から辻、江戸に於て本所、深川、永代、両国を、はてもなくつけつ廻しつ、さまよい出した経験を有するこの男にとっては、長浜の町は甚《はなは》だ狭い。奥へつき進んだつもりで、かえって湖畔へ出たりしてしまいました。
湖畔に立って、烟波浩渺《えんぱこうびょう》たる湖面の夜に触れると、そこにまた、この男特有の感傷に堪えられないものがあって、
「おい、琵琶を弾《ひ》く、めくらの、お喋《しゃべ》りの坊主やあーい、離れ島にたった一人で残された坊主――無事でいるか、やあい」
こう言って、また慌《あわ》ただしく町の方へとって返して、前の如く軽快に、用心深く、深夜をあさってみたが、幾時かの後、町の辻の中央で、ぱったり足をとどめたかと思うと、急に飛び上って、地団駄を踏み、
「そうら見ろ、言わねえこっちゃあねえ」
果して、果して、米友の睨《にら》みつけ
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