。
ただ、道庵の脱線ぶりのあまりにあざやかなのにでくわすと、青嵐も時々面食うこともあるが、それとても、宿酔のさせる業で、この人本来の調子ではない、どうしてなかなか侮り難い経験も、学識も備えている――と道庵を買いかぶりました。事実また、道庵の方にも、多少は買いかぶられるだけの素質があったかも知れないのです。ことに、その話しっぷりや、気合というものが、この辺の人士とは全く調子を異にし、口に毒があるけれども、腹にわだかまりがない。これやこの江戸ッ子というものの如是相《にょぜそう》であろうかと、青嵐はようやく傾倒する気にまで進んで行ったものと見えて、
「さきほどおたずねの、その、例の豊公の木像と、淀君の消息と、秀頼八歳の時の筆――といったようなものは、実は確かに当寺に保管してあるのです、拙者が留守をあずかって、よく保管してあるのです。それに相違ないが、世間にあまり披露されたくない、というのは変なもので、この土地はそれ、豊太閤が羽柴筑前守時代の発祥地でしょう、秀吉が居城を築いて、ようやく大を成したゆかりの土地ではあり、それに、例の徳川家にとっては無二の反逆人、石田治部少輔三成の故郷に近いことではあり、その後、封ぜられた大名もありましたが、なにしろ豊公の故地では果報負けがすると見えていつきません、それ故に、長浜の地はその後長く城主の手を離れて、市民の商工地として成り立って来ました。ずっと武家の城下とはならず、町人の市場となって今日になってまいっているような次第で、徳川家の天下では、最初に於て、どうしても豊公の威と徳とを銷《け》したがる政策に出でたのは是非もありません――そこで、この土地の住民に於ても、豊公の余威をなるべく隠そう隠そうとつとめたような形跡もないではない、それが一つの原因かどうか、当寺なども、このように微禄仕りました。長浜別院大通寺の方は、本願寺の勢力であんなに宏大であるが、この寺はごらんの通り見すぼらしいものになっているのが、かえってまた保身の道によろしい点もあって、存在を認められないくらいに微禄しておりますればこそ、今日でも寺の周囲に相当の遺蹟も残っておれば、おたずねのような宝物も保存せられている、それをどうかすると聞きかじってたずねて来るものがあるけれども、たいていは、左様なものは昔はあったかも知れないが、今日はもう行方不明じゃ、とこのように申して謝絶しておりますが、貴老に至っては、もはや、せっかく御奇特の儀お見届け申したるにより、残らずお目にかけようと思いますが、何を申すも、夜分ではやむを得ないによって、明朝に至って、ゆっくり御案内を申し上げる、まず今晩は、むさくるしけれど、当屋へ御一泊あってはいかがでござる」
こうまで言われて、辞退するような道庵ではありませんでした。
道庵を一室に寝《やす》ませた青嵐は、また炉辺に寄って来て、燈を剪《き》って、ひとり書物をひもどきはじめました。何の書物をか、青嵐がしきりに読み耽《ふけ》っている一方、早くも熟睡に落ちた道庵の鼾《いびき》の音が高い。
かくて湖上湖畔の夜は更けて行く。まさに書を読み、茶を煮るに堪えたる好夜だが、米友の行方だけが、少々気がかりにならぬではない。
百九十四
だが、それも案ずるほどのことはない、宇治山田の米友は、今、確実に湖畔の町の夜を歩いている。
夜といっても、それは月の何日に位するかは明瞭でないとしても、お銀様が胆吹の山をそぞろにさまよい出でた時分が、繊々たる鴉黄《あおう》を仰いで出でた当分のことですから、宵にちらりと月影を見せたばかりの闇の夜なのであります。
青嵐の言うところでは、この静かな湖畔の町にも、何か殺気というようなものが漂っているそうだが、米友は実はその殺気をさがし求めて、こうして歩いているのだ。
といっても、青嵐のいわゆる殺気というやつと、米友がめざして歩いている殺気というやつとは、全然、その存在と名目を異にしているかも知れない。少なくとも、青嵐のいうところは、ある一定の発源地とか、対象とかいうものが存しているのではなく、民心の鬱結がおのずから相当の殺気というものを孕《はら》んで、禍機が不可思議の辺に潜んでいるらしい意味に聞えましたが、米友は、そんなような漠然たる妖気を見破らんがために歩いているのではない。彼のたずね求めんとするところには、おのずから一定の目当てがある。そのとらえんとする殺気は、凝って一つの物影として存している。
その物影とは何物ぞ。よく問題になる例の暴女王、お銀様の放漫を戒めんために出動したのか。それもそうであって、必ずしもそうではない。お銀様は放逸に、山を出て来たもののようだが、彼女は米友から制馭《せいぎょ》さるべき地位にある女ではない。かえって、米友が統制を受くべきほどの略と権とを持
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