《はるばる》とお越しになりましたか」
「江戸の下谷に住居を致しおりましてな」
「下谷に……」
「下谷の長者町というところに巣を構えておりまして」
「ははあ、下谷の長者町……」
「道庵と申しまして」
「道庵先生と申されるか」
「道庵と申して、いやはや、安っぽい医者でげすよ」
ここへ来て、ボロを出してしまいました。人にものをたずねて住所姓名を名乗ることは礼儀の一部分であるとしても、安っぽかろうと、高っぽかろうと、そんなことまで聞かれもしないのに口走る必要はありますまい。だが親切な青嵐浪人は、これもまた宿酔のさせる業と好意に受取って、
「して、当寺に御用の程は?」
「実はその――さる人から教えられましたところによりますと、御当寺は、見かけこそ、こんなにケチだが……内容に至っては、なかなか容易ならぬ由緒あるお寺と承りまして、それで、推参いたしたような次第でげす……」
と道庵が言いました。相手がこの寛容なる浪人でなければ、ここでハリ倒されてしまったかも知れない。見かけはケチなお寺だが……自分のことを言う場合にはよいが、先方に対してそれを言うのは失礼この上もないことである。ところが、教養があり、寛容の徳を備えた青嵐は、微笑をもってこれに対しました。
百九十二
「それは、遠路のところ、よくお訪ね下された」
と、教養があり、寛容の徳を備えた留守番が、微笑をもって返答するものですから、ここでまた道庵がいい気になり、
「わしゃあね、さいぜん、大通寺長浜別院というのをたずねてみたんだがね、思ったより宏大なる建築に驚かされましたね、京大阪なら知らぬこと、長浜なんてところに、あんな大きなお寺があるたあ、お釈迦様でも気がつくめえ、とすっかり胆を抜かれちゃいましたような次第でげす。さてまた、この次に由緒ある知善院をたずねるのだが、今度こそ胆を抜かれねえように、臍下《へそした》に落着けて、たずねて来て見ると、どうでしょう、今度はまた、あんまり見かけがケチなんで、正直のところ力負けがしてしまいましたような儀でげす」
「いや、それはそれは、せっかくの御期待にそむいて恐縮でござるが、長浜の宝生山の知善院というのは、当所のほかにはござらぬ。して、その御用向は……」
「別に、特別の御用向という次第でもござらぬが、承るところによると、御当寺には、天下無二の寺宝がおよそ五通り備えてござる――由を、不破の関守氏より承りましたるにより、わざわざ、拝見に罷《まか》り出たような次第でげして」
「ははあ――それは、見らるる通りの貧寺でも、相当の歴史をもっておりまする故に、少々の寺宝もないという次第ではござらぬが、天下無二の無三のというようにおっしゃられると恐縮いたす」
「いや、なかなか、そうでねえそうだよ、第一、このお寺の庭というやつが曲者で、これが昔、我々の先輩として尊敬する曾呂利新左衛門《そろりしんざえもん》の設計にかかるということだ」
「なるほど――それは、その言い伝えの通りでござる」
「それ、ごらん――曾呂利が腕を見せた庭とあれば、それだけでもけっこう見物《みもの》だね。それから、もう一つは、大阪の城内から将来した最も由緒ある豊臣太閤秀吉の坐像がおありだそうだ」
「いや、それはどうも……」
「それと、もう一つ、淀君から、秀頼をよろしく頼むとさる人に宛てて細々《こまごま》と書いた自筆の消息状、並びに、豊臣秀頼八歳の時の直筆《じきひつ》がお有りだそうだ、後学のために、ぜひ、それらは拝見いたしておきたいと、わざわざ道をまげておたずね致したものでござる、何卒、折入ってひとつ、拝見の儀、お願い申したき次第でござります」
と道庵が、至極テイネイに頭を下げたものです。
留守をあずかる浪人は、それを聞いていささか迷惑げに、
「曾呂利の庭だけは申し伝えの通り、いまだに面影が残っておりまする故、ごらん下さる分にはいっこうさしつかえござらぬが、その豊太閤由緒の何々と申す儀は……左様な寺宝があるとも承り、またないとも承っておりまして、何とも御返事が致しかねるが、いずれにせよ、当今は訪れる人もなきこの荒れ寺を、よくぞお心にかけて、江戸よりわざわざお立寄り下された御好意に対し、留守をあずかる拙者の一存で、お目にかけられるだけはお目にかけて進ぜ申す。何を申すも、この通り夜分の儀でござる故、ともあれ、こちらへお越しあって拙者が控えで、粗茶など一つ召上られてはいかがでござるな」
「それは千万かたじけない、然《しか》らば、お言葉に甘えて……」
百九十三
そこで道庵は、相知らずして、米友と入れ替りにこの家の客となったのです。
青嵐居士は道庵を庵室に招じ入れ、炉辺に茶を煮て四方山《よもやま》の物語をはじめました。
話してみると、おたがいに話せる男だと思いました
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