だしさを、微笑しながら見送った青嵐は、炉前に戻って、暫《しばら》く茫然と炭を見つめておりました。
 どうしたものか、さいぜん再三、庵寺の玄関の方で呼びかけた声は、もう聞えません。さては、呼びあぐんで、立帰ってしまったと見える。
 日がたそがれる。
 暫く炉炭を見つめていた青嵐は、やがて行燈《あんどん》を引寄せて火を入れたのですが、その火影をまた暫くぼんやりとながめていたが、近所隣りは静かなものです。
 日はとっぷりと暮れた。
 これから、秋の長夜がたのしめる。昼は釣をたのしみ、夜は燈に向って書を読むの快。それを存分にたんのうすべく戸締りをする前に、青嵐は外へ出ました。外は暗いけれども宵《よい》の口だから、もちろん、提灯、カンテラがなくとも歩ける。庭下駄をカラコロと穿《は》いて、中庭をめぐり、庵寺の方へと歩き出したのは、とにかく、これから秋夜読書の快味を満喫せんがために、一通り境内の垣を見守っておかなければならぬ。かなりに広い庭内のそぞろ歩きをはじめて、やがて、裏手から寺の門内を一通り見めぐり、玄関の近くまで来てみると、そこで一種異様な物音に、思わず足をとどめさせられました。
 一種異様な物音といっても、神経を衝動させるような物音ではないが、思いがけない物音には相違ない、玄関のところで、かなり高らかな鼾《いびき》の音がするのです。誰かここへ来て寝込んでいる。近づいてのぞき込んで見ると、見慣れない一人の老人が、いい気持になって、玄関の式台に寝込んでいる。その人品風采を篤《とく》と見定めて、
「お医者さんだな」
 本来、お医者さんだの、坊さんだのというものの姿は、そんなに人を気味悪がらせるものでないが、さて、この辺にはあまり見かけないお医者さんだが、何の用で、こんなところへさまよい込んだのか、この近所の病家先へでも来て戸惑いをしたのか、それとも、途中、医者の不養生で急病を起し、医者を救うべき医者がないために、ひとり苦しんでいるのかと思えばその鼾は至極泰平であって、苦痛だの、屈託の色なんぞも見えないし、いささか――ではない、かなり多分の酒気を帯びているところを見ると、これはてっきり病家先で、全快祝いかなにかに呼ばれて、いい心持に食《くら》い酔って、戸惑いをして、ここへ転げ込んで寝込んでしまったものだ、天下は泰平だわい、と青嵐も感心はしたが、このままでさし置くわけにはゆかない。ぜひなく肩のところへ手をかけて、ゆすぶりながら、
「モシモシ、モシ、お医者様」
と呼び起したが、ちょっとやそっと、ゆすぶったのでは、手ごたえがありそうもないから、やや荒らかに、ゆすぶりかけて、
「もし、お医者様――お医者様、こんなところへゴロ寝をしては、医者の不養生でござるぞよ」
 ぐいぐいとやったものですから、ようやく気がついたと見えて、酔眼をポカリと開き、
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
と言いました。
「しっかりなさい、ここは寝るところではござらぬぞ」
「ムニャ、ムニャ、ムニャ」
と二三度|唸《うな》ったかと思うと、すっくと立ち上りました。

         百九十一

 ようやく呼びさまされた道庵先生は、あわただしく起き上り、
「これは、どうも、いやはや、大変に失礼を致しました、どうぞ、御容捨にあずかりたい、年甲斐もなく、少々食べよったものでござるが故に、あしからず、どうも、はや」
と非常に恐縮して、そわそわしているものですから、青嵐も気の毒がって、
「いや、御心配にはおよびませぬ、お休みになる分にはいっこう差支えござらぬが、夜気に当っては毒と存じ申した故」
「いやどうも、年甲斐もなく、それに職業の手前、医者の不養生を如実にお目にかけて、何ともはや汗顔至極……」
と頻《しき》りに詫《わ》びるけれども、その表情を見るとけろりとしたもので、面《かお》のどこを見ても汗などをかいている痕跡はない。
「時に、少々、物を承りたい儀でござるが、この辺に知善院と申すお寺がござりましょうか、御存じならば御案内にあずかりたい」
「知善院――それは当寺でござるが」
「ははあ、では、御当寺がその宝生山知善院と申されるお寺様でござりましたかな」
「左様、当寺がたしかに知善院に相違ござらぬが」
 二人の問答がここへ来ました。これによって見ると、道庵先生は戸惑いをして、このところへのたり着いたのではなく、たしかに、山号までも心得て、この寺を目的にやって来たもので、
「それは、それは」
 改めて手を顔にして恐悦がり、
「御住職は御在寺でござりましょうかな」
「住職――ただ今、ちょっと無住――というわけではないが、その留守をかく申す拙者があずかっておりますが……」
「左様でござるか、それはまた何よりお手近い儀でござる、実は、愚老は、江戸から参上いたしたものでござるが」
「ははあ、江戸から遥々
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