いるものなることがよくわかる。妻子は別のところにあるのだか、どうだかわからないが、とにかく、今はこうして一人住居をしていて、よく釣に出かける、釣の留守は、隣家のお婆さんに頼んで置くのだ。貧乏こそしているが、かなり暢気な住居だなと思わずにはいられません。

         百八十七

 米友に湖魚を炙らせながら、浪人は一尾のかなり大きな魚を、ビクから掴み出して、米友の前に示して言いました、
「君、見給え、琵琶湖には、こういう魚がいるんだぜ」
「やあ!」
 米友は、眼をみはって、その魚を見つめました。といっても、米友はそう魚類に就いての知識を持っていない。鹹水産《かんすいさん》と淡水産の区別ぐらいはわかるだろうが、琵琶の湖にはどういう種類が特産であるか、そのことは知らないが、いま眼の前へ見せつけられた魚を見ると、どうも、一種奇怪の感じがしないではない。
 それは、鯉ではなく、鮒でも、ハヤでもないことは一見して明らかである。長さは一尺ばかりあるが、全身の鱗が、さながら蛇のようで、一見、人をゾッとさせるものはある。
「君は知るまい、これはカムルチという魚なんだ、怖るべき奴だ。何故にこいつが怖ろしいかといえば、第一、こいつは、他の良魚よりはすばらしい蕃殖力を持っていることだ。蕃殖力というのは、卵を産んで、その仲間を殖やす力だ。こいつがすばらしい蕃殖力を持っている上に、見る通り獰猛《どうもう》な奴で、他の魚類を手あたり――ではない口当り次第に食い荒すのだ。この通り鋭い歯で、単に食い荒すだけならいいが、こいつが殖えると、他の魚類という魚類を食いつくしてしまうのだ、つまり、他の魚類を根絶やしにしてしまうのだ。なんと、魚類にとってこれより怖るべき奴はないと同様、漁をして生活をしている人間共にとっては、またこのくらい害をなす奴もないものだ。また、この口中の歯並みを見給え、細かいけれど、この鋭いことを見給え、こいつでもって、あらゆる魚類を歯にかけるのだ。そうして、こいつは、生意気に、時々水面から口を出して空気を吸って、鯨の真似《まね》をする、かと思えば、泥の中に深く身を隠して、韜晦《とうかい》する横着も心得ている。今日もちょうど、拙者が釣をしているところの水面へ、変に妙な奴が浮き出した、すっぽんかなと思って手網《たも》を入れてすくい取って見ると、意外にも、こいつだ――どこから入って来たか、こいつに出られた日には、魚族よりは漁師の生活問題だ」
と言いながら、再応、米友の眼前に突きつけたものですから、
「ふむ、エライ奴だなア」
「ある意味から言えばエライにはエライ奴だよ、こいつが威力を振うと、日本一の大湖の魚族が根絶する!」
「うむ」
「今、京都に新撰組というのがあるが、それが、このカムルチの存在とよく似ている、いや、新撰組の存在は時勢の必要上、必ずしも悪魚の存在とは言えまいがな、あれなどはまだ正直な方だが、世間には、相当の合法的機構を備えながら、カムルチの所業をなして、世の良風美俗を害し、自由の名で横暴を行っている奴がある、そいつらの害悪たるやカムルチ以上である、たとえば……」
 米友には、この浪人のかこつけて言うことがよくわからない。新撰組の存在も、それ以上の何とかも、お角さん同様、米友の耳には入らないが、ただ、
「うむ、人間の中にも、こういう奴がいるよ、こういう奴が……」
と言って、ひとり呑込みをしました。
 その時、寺の玄関の方で、人のおとなうような声がしましたけれど、二人は話に油が乗って、それには気がつきませんでした。

         百八十八

 玄関におとなう声があったらしいのを、二人は炉辺の話の興にのって、それにはトンと気がつかず、「人間の中にもこういう奴がいるよ、こういう奴が……」と言った米友の思い入れを、青嵐は我が意を得たりとばかり受取って(この浪人の名を暫く仮りに青嵐と呼んで置く)、
「うむ、その通りだ、悪い奴がはびこると迷惑をするのは善い奴だ、いったい、悪い奴というものは征伐されるためにこの世に存在しているものなんだが、善い奴は得て事を好みたがらないから、それで隠れたがる、そうなると、悪い奴はいよいよいい気になって、増長|跋扈《ばっこ》する、人間ばかりじゃない、金銭に於てもそうだ、悪貨は良貨を駆逐すといって……」
 青嵐居士は、ここまで論じかけたが、これは相手にとって少し理窟っぽいと思い直したと見え、怪魚をビクにしまい込んで、
「明日になったら、早速ひとつ漁師共に話して、こいつの退治にとりかからせることだ。それはそれとして、君に夕飯を御馳走してあげるから、君も働き給え」
 こうして、青嵐は手を洗いに行き、米友もそれぞれ夕餉《ゆうげ》の仕度の手伝いにとりかかりましたが、生活ぶりが単純であるだけに、あんまり手数もかからず、釣り
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