《ひっきょう》、長浜の町の方へ帰るものに相違ない。自分としては、さし当りどこへという当てはないようなものだが、まだ、このまま胆吹へ引上げる気にはなっていない。それというのは、昨晩自分が胆吹から飛び出して来た目的というものが、まだ全く果されていないからだ。その目的というのは、例のセント・エルモの火に送られて、たしかにこの長浜の町へ入り込んでいる怪物。それから、繊々たる鴉黄《あおう》をのぞみながら、ふらりふらりと館《やかた》を浮かれ出して、これもたしかにこの長浜の町のいずれかに没入しているに相違ないところの、お銀様という暴女王のいどころを突留めて帰らなければならない。
少なくとも、今晩もう一晩は、この長浜の町の夜を、夜もすがら漁《あさ》ってみなければ胆吹に帰れない、という目的を米友は、ひそかに胸に秘めているものですから、いずれ一応はこの浪人の勧誘に応じて、あるところまではついて行き、それから先は臨機応変にごまかしてしまおう――といったようなはらでついて行きました。
釣竿をかついで、すっくすっくと先に立って行く浪人の背丈は、普通よりは甚《はなは》だ高い。ちょっと青嵐居士《せいらんこじ》とでも言いそうな恰好をしている。それに無言で附随した米友という男は、小さくてまんまるい。道庵先生のおともとしての米友も、先生の長身に加うるに、自分の短躯を以てしているから、いつもこういう取合せには慣れているが、今日のは浪人が長い釣竿をかついでいるのに、米友は、短い例の杖槍を肩にして、ひょこひょことついて行くのだから、大人島《おおびとじま》と小人島《こびとじま》とで調練の競争でもしながら歩くようで、よそ[#「よそ」に傍点]目にはずいぶんおかしいが、米友当人はおかしいともなんとも思わない。
百八十六
いったいこの浪人が、どういう人で、どこへ帰るのだか知らないが、米友としては、上のように腹を据えて、浪人が引廻すように引廻されて行きました。
そのうちに、米友が、はじめて思いついたことがあります。
そうだ、そうだ、思い出すほど遠い距離でも時間でもないのだ。つい数日前、自分が胆吹山からこの長浜の町へ買物の宰領によこされたことがある、その時の帰るさであった、途中、石田治部少輔三成《いしだちぶしょうゆうみつなり》の故郷というところで異変にでくわした。
幕府の代官の検地というのがあって、それと土地の者とが衝突して、その巻添えを喰ったために、米友の連れて来た馬が逸走して、それを米友が追いかけて、ついに姉川の古戦場の川原まで行ってしまったことがある。その川原の真中まで馬を追い込んで見ると、その両岸に群集が群がって殺気を立てている。おいらと馬をおどかすにしては、あまり仰山なと思っていたら、両岸の百姓たちが水争いをするのであった。両岸の村民が水口《みなくち》を争って、あわや血の雨を降らそうという時に、水門の上へ悠々と身を現わして、仲裁を試みた上に、双方の代表を引具《ひきぐ》して引上げた編笠の浪人が一人あったのだ。
あの人だ、あの人が、つまりこの人なのだ。そう思って見れば、いよいよ背恰好がそっくりである。それに相違ない、と米友は見込んでしまったが、さて、あれから、あの納まりはどうなったのだ。まるで戦争でもはじまりそうだったが、それでも無事に済んだらしいのは結構だが、その納まりをつけたこの人が、ここではあんまり暢気《のんき》過ぎるというような感じもして、とにかく、変な人だと思いつつあとをついて、宇治山田の米友はほどなく、とある一種異様な門構えの前まで来ました。
その門というのが、さして大きな門ではないが、その構造が全く変っている。室町時代に於て見る四脚門のような形をして、古色もたいていそれに叶っているから、好古癖のあるお銀様でも来て見れば案外の掘出物を見つけるかも知れないが、米友には、少し変った門だなと思っただけのものでした。
導いて来た釣竿の浪人は、この門から入って行くと、中は、ささやかな庵寺です。
「これでも、お寺だな」
と米友が思いました。その庵寺の一方の庫裡《くり》というようなところへ来ると、浪人が、無雑作に隣の家へ言葉をかけました、
「帰りました」
「お帰りなさいまし」
隣家から老婆の返事です。そこで、庵寺の庫裡のようなところを開いて、浪人が中へ入ったものですから、米友も続いて入る。
室内は、存外|凝《こ》った茶室まがいに出来ている。続く座敷が狭いようで存外広い。
それから二人は、小炉を囲んで、浪人が釣って来た湖魚を炙《あぶ》りにかかりました。
「君も働き給え、これで晩飯の御馳走をして上げる」
湖魚を串にさして、炉火で米友に炙らせるのであります。
これによって見ると、右の浪人は、この庵寺の一部に、一人|住居《ずまい》をして
前へ
次へ
全138ページ中128ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング