型の浪人姿が、一心に釣を垂れているだけの平凡な光景でありました。
百八十四
米友は仰山な驚き方をしたけれども、その理由はわからないにしても、よし敵を見たからといって、そのまま退倒するような男ではない。
忽《たちま》ち棹《さお》を取直して、真一文字に、その釣する浪人の方へ向って漕ぎよせて行きました。
そうすると、先方も、はじめて気がついたと見えて、編笠をかたげて、こなたを見ました。こなたの驚いたのに比較して、先方ははなはだ悠長なものでありました。
一旦、編笠をかたげてこちらを見たが、やがて、もとの通りに面を伏せて、無心な垂綸三昧《すいりんざんまい》の境地を取戻している様子です。
そこで米友は、程近いところへ漕ぎ寄せると共に、いっちかばっちか、舟から飛び上って、そうして、何はともあれ、まっしぐらに右の垂綸の浪人の座元まで走《は》せつけて行ったものです。
それは、釣魚三昧に耽《ふけ》る境地の人にとっては、かなり迷惑なことであったでしょう。釣は釣る人の心を統一すると共に、釣られる魚の心を集中しなければならぬ。せっかくのところを、こうどたばたと駆けつけられては、釣る人の迷惑察するに余りあるが、その人は、極めて寛大に、米友の走りつけるのを待っている。
「済まねえ、どうも済まねえが、お前さんが留守だったもんだから、つい、な、つい、黙って、あの舟を借りちまったんだよ」
頭ごなしに陳弁を試みた米友。件《くだん》の浪士は無雑作《むぞうさ》に頷《うなず》いて、
「大抵、君だろうと思っていたよ」
「うむ」
「どこへ行ったのだ、その舟で」
「竹生島まで行こうと思ったが、つい、道を間違えてね、なんだか、名も知らねえ、ちっぽけな島へ着いちまったんだ」
「ははあ、この辺でちっぽけな島というと、沖の石ではなし、多分、竹島だろう。そんなところへ何しに行ったんだ」
「長年の心願で、竹生島の弁天様へ琵琶を納めてえと、こういう人があったから、それが、病身で、盲目《めくら》なんだ、そこで、おいらが、ひとつその舟を頼まれてやりてえという気持になったんだが、舟はなし、銭はなし……」
「うむ、うむ」
「そこで、ふと考えついたのは、この間、お前さんが、ここで、小舟の上で釣をしておいでなすったね、今日もまた、いるかも知れねえと思って、いたらひとつ頼んで、その舟を貸してもらいてえと、こう思って飛んで来て見るとな、人はいねえけれど、舟はある、大きな声をしてお前さんを呼んでみたが返事がねえ、暫く待っていてみたが、音沙汰《おとさた》がねえから、黙ってあの舟を借りちゃった」
「うむ、よしよし、それでよし」
浪人は鷹揚《おうよう》に肯《うなず》いてのみいる。これで、米友の小舟の出所がわかったのみか、その持主の諒解をも得たことになる。そこで、彼は引返そうとすると、浪人が待てと言いました。
「まあ、君、少し待ち給え、一緒に帰ろう」
一緒に帰ろうにも帰るまいにも、おいらもこの人の帰り先がわからねえが、この人もおいらの行く先を知っちゃあいまい。変なことだと思ったが、それでも米友は、そう言われると無下《むげ》に振切るわけにもゆかない。
おもむろに釣道具を片づけている浪人の左右を見ると、蓆《むしろ》の上に何か黄表紙が四五冊、散乱している。
百八十五
「君は、あの、なんだろう、このごろ、胆吹山の上平館《かみひらやかた》へ出来た組合の中にいる一人だろう」
と浪人から問いかけられて、米友が、少し眼をむいて、
「そうだ、それを、お前はどうして知っている」
「それはわかる」
「どうして、わかる」
「そりゃわかるよ、言語挙動で、この土地に居ついている人か、新来の人か、誰だってわかる」
「ふむ――」
ここにもまた勘のいい奴が一人いる!
この浪人とは、数日前、ここの岸で釣をしているところを、偶然立ち話をしたばっかりなのに、自分がいま胆吹王国にいることを先刻承知でいるらしい。それのみか、ああいったような事情やむを得ず、この小舟を無断借用した、それをもちゃあんと先刻心得ている。なにもかも心得ていながら、黙っている、なんとなく解《げ》せない浪人だ、という感じを米友がようやく深くしました。
さて、右の浪人は、一切をとり纏《まと》めて立ち上ったが、その立ち上って二三歩あるき出した形を見て米友が、思わずまた頭をひねったのは、実は今まで、この人が座を構えて、釣を試みている形ばっかりを見ていたのだが、こうして歩き出したところを見ると、どうも、別に、たしかにどこかで立ち姿を見た覚えがある。たしかに覚えがあるが、今それがちょっと思い出せねえ。
米友としては、この変な人がどこへ帰るのだか、それは一向にわからないが、どのみち、あとへ戻れば湖の中へ入ってしまうのだから、畢竟
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