の、セント・エルモの火に送られて出動するのを見咎《みとが》めて、そのあとを追って、とうとう、長浜の町の夜の街にまで下りてしまったのであります。
 然《しか》るに、その夜は夜もすがら、ついにたずねる幻影のまぼろしを発見することはできないで、街頭の彷徨《ほうこう》に一夜を明かしてしまいましたが、その足ついでに飄々《ひょうひょう》とこの湖畔の城址まで来てみると、疲労も感じ、睡眠慾も出て来て、途端に古城址の石と石との間に、ほどよきねぐらを発見し、もぐり込んで身を横たえ、ぐっすりと甘睡の夢を貪《むさぼ》っていた。ところへ、同じく胆吹山を下りて来た弁信法師に嗅ぎつけられて、そこで二人の会見となり、ついにこの盲法師のために義侠心を発して、その多年の宿願であるところの、竹生島詣での舟を出してやったのはいいが、思いもかけぬ無人島に送り込んでしまった。ところが、当の相手は、結句その無人島に送りつけられたことを幸福なりと感じて、そこに一人、永久にとどまると頑張り出してしまって、テコでも動かない。
「世の中には、変な坊主もあればあるものだ、人間はなるべく賑やかなところへ、便利のいいところへと住みたがるのに、あのお喋《しゃべ》り坊主は、目も見えねえくせに、あんな離れ島で、たった一人で暮そうというんだから、てえげえ[#「てえげえ」に傍点]押しが太いや」
 全く、弁信があの島へ納まると決心した勢いは、米友の力を以てしても、手がつけられなかったと見るよりほかはない。
 米友は、ひとり弁信を残した多景島の方を見返り見返りしながら、無事に以前小舟を出発させたところの、古城址の臨湖の岸まで漕ぎ戻ってまいりました。

         百八十三

 小舟が岸に近づくと、米友は棹《さお》を返して、蘆《あし》の生い茂った一道の水路の中へ、舟を漕ぎ入れてしまいました。
 これは、古城址としての、この臨湖の一廓に、昔の廓壕《くるわぼり》の名残《なご》りでもあるが、水の湾入して、蘆葦《ろい》の生いかぶさって、その間に、面白い形をした松が所々にうねっている、その間を、蘆分小舟《あしわけおぶね》の画面になって、米友が漕いで行くのは、おのずから一定の針路があるに相違ありません。
 もとより、米友自身が、一隻の小舟をも所有しているはずはないから、どこからか借受けて出発したものに相違ない。すでに借受けて出発したものとすれば、使用の済み次第、その本来の所有主に返却しなければならない。そこで、この律義一遍の生一本な野人は、当然その義務を果すべく舟を漕ぎ戻し行くものに相違ないのです。しかし、それだとしては少々水先が変である。舟を貸すようなところは、あちらの臨湖の岸であって、この廓壕のようなところを漕いで行けば、当然、廃墟の行きどまりへ着いてしまう。その辺に、貸舟業者の河岸があろうとは思われない。
 しかし、米友は、遠慮会釈なく、その廓壕の中の蘆間へ舟を操って行きましたが、暫くあって、
「あっ!」
と言って舌を捲いて、棹をとどめて小舟の中に立ちっきりになって、その円い目をクルクルと驚異させました。
 物に怯《おび》えないこの男も、驚くことはあるのです。驚くというのは、予期し、或いは予想していたことより、相当、或いは全然意外な事体が展開された時に起る人間の感情なのですから、米友が、「あっ!」と言って、眼をみはって、突立ってしまったからには、その見つめた方向に於て、全く予想も予期もしなかった或る現象が現われたからなのでしょう。鬼でも出たか、蛇《じゃ》でも出たか。いや、そんなはずはない。本来、琵琶湖の湖辺は決して猛獣地帯ではないことは、前にも述べた通りで、いかに古城址の廃墟のあとを訪ねたからとて、ジャングルの王者が現われて来るような憂いはないのです。
 米友が「あっ!」と舌を捲いたのは、存外平凡な光景なので、この堀の湾入の行きどまるところに、ふり、形の面白い一幹《ひともと》の松があって、その下に人間が一人いたからです。その人間とても、松の木にブラ下がって、足を宙にしていたわけでもなんでもない。その幹のところにうずくまって、悠然として釣を垂れている人が一人あっただけです。
 木の下に人が一人うずくまって、水の中へ釣を垂れているという光景は、どう見直したとて、しかく仰山に「あっ!」と言って舌を捲いて、驚かねばならぬほどの現象ではないのです。むしろ、極めて平和な別天地の、ゆうゆうたる光景でなければならぬ。それを、米友ほどの豪傑が、水馴棹《みなれざお》を取落さぬばかりに驚いて、「あっ!」と舌を捲かしめた先方の人影というものは、よく見る尾羽《おは》打枯《うちから》した浪人姿で、編笠をかぶって謡をうたったり、売卜《ばいぼく》をしたりして露命を行人の合力《ごうりき》によって繋ぎつつ、また来ん春を待つといった在来の
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